モリノスノザジ

 エッセイを書いています

「新型コロナウイルスの影響により…」

 ここのところ、1日に何度もこのフレーズを聞く。何日かに一度は自分も口にする。はじめのころ、世界中がこんなことになるだなんてしていなかったあのころこそ心配半分興味半分で真剣にニュースを見てみたりもしたのだけれど、1日刻みですこしずつ増えていく感染者数のカウントアップ。日々変わり映えのしない映像に、暗い気持ちになるニュースに、なんだかいいかげん飽き飽きしてきてしまった。外に出れば空はそんな騒ぎなんてまったく関係ないみたいに(実際そうなのだが)きれいに晴れていて、世界はもうすぐ春になるというのに、いったいいつまでこんな生活が続くのだろう。

 

 こんなにも新型コロナウイルスに影響されるくらいなら、なんでも新型コロナウイルスのせいにできてしまいはしないだろうか?たとえば…そう、会社に遅刻するのも、昨日弁当づくりをサボってしまったも新型コロナウイルスのせい。最近心なしか身体が重たくなってきたのも新型コロナウイルスのせい。ここのところあまり寝つきがよくないのも新型コロナウイルスのせいだ。

 なんて言ってはみるものの、じつのところは本当に新型コロナウイルス騒動が多少なりとも影響していそうなのがつまらない。定時に出勤しないのは時差出勤が認められているからだし、この頃のごたごたで仕事が忙しくなり、家事がいささかおろそかになっているのも事実だ。しばらく続いた残業生活で間食の癖がつき、体重が増加したのも、新型コロナウイルスの影響といえばそうである。新型コロナウイルスというやつは、いったいどこまで生活に侵食してくるというのだろう。

 

 実際のところ、新型コロナウイルスは私たちの生活を変えた。街のドラッグストアからはマスクが売り切れ、手指消毒用アルコールが消え、キッチンハイターが消え、なんとトイレットペーパーやティッシュまでも買い占められた。小・中・高校の臨時休校が始まる前日にはスーパーマーケットから冷凍食品やレトルト、カップラーメンも姿を消した。電車のなかでだれかが咳をすれば争いがおき、海外ではアジア系の住民が暴行される事件が起きたりもしていると聞く。

 

 きっと不安なのだ。他人を攻撃するのも、不必要なくらいトイレットペーパーを買い込むのも、先が見えない不安からくるものなのだろう。トイレットペーパーは心配しなくても供給されるし、ウイルスの感染に人種は関係ない。だが、重要なのはそういった事実を知っているかどうかということではない。不安は人をかきたてて、ときに誤っているかもしれない選択をさせる。新型コロナウイルスが世界中に広がるにつれて、不安も広がっている。まるでウイルスが伝染するみたいに。トイレットペーパーを買い込む人を、私は馬鹿にできるだろうか。

 

 私の母は、昨年乳がんを患った。そのことを知ってから初めて帰省して母の姿を見たとき、病とはこんなに人を変えてしまうのかと息をのんだ。母はすっかり痩せてしまっていた。しかし、どうやら母の見た目が変わったのは単に病気のせいというわけでもないらしい。がんにかかった母はタブレットを駆使してネット上であらゆる情報を集め、実践した。極端な食事制限をして、砂糖も一切摂らないことにした。そのことについて主治医には相談したのかと尋ねると、話したけれど先生はそうしなさいともやめなさいとも言わなかったと言った。そんな生活をしていたら別の病気になるよと、先生に指示されたことだけをやればいいのだと言ったのだけれど、母は砂糖を摂ることをやめればがんが治ると信じていた。

 その後母の病状は快方に向かって、砂糖断ちがそれに寄与したのかどうかはわからない。医者の言うことを聞かずに自己流の治療に励む人というのは、私が病人と接したわずかな経験のなかでもそれなりにいて、そんな話を聞くたびに私は彼らのことを愚かだと思っていた。けれど、今でもそう言えるかどうかはわからない。不安で不安で仕方がなくなったら私も、できるだけの希望にすがりたいと思うかもしれない。他人からまがい物だと言われても、本当に正しいことなのかわからなくても、そこに希望がある限りはそれを信じたいと思ってしまうかもしれない。不安な気持ちに駆られて誤っているかもしれない選択をしてしまう人のことを笑えるほど、私は私の強さを信頼できていない。

 

 不安が束になって鋭い刃になるところを、つい半年前にも私は見た。東京オリンピックのマラソン・競歩開催地が札幌に変更になるときだった。街中で開催される、それもオリンピックの花形ともいわれる競技が東京ではない場所で開催されると知って、東京での開催を待ち望んでいた人たちはとても肩を落としたに違いない。また、それが決定された時期も時期である。

 失望や不安が変更後の開催地・札幌への批判へと次第にかたちを変えていくのをみて、私はとても悲しい気持ちになった。マラソン・競歩を受け入れる(押し付けられる)だけなのに、街並みや景色が不当に貶められる札幌が不憫でならなかった。それでもほっとしたのは、北海道の人たちが「♯札幌Discover」というかたちで批判をはねのけて、東京VS札幌という不毛な対立を避ける流れをつくってくれたことだ。札幌だってマラソン・競歩の受け入れを諸手を挙げて喜んでいたわけではなくて、きっとそこには課題があり、不安があったに違いない。その不安を団結の力に変えたこの一連のうごきをTwitterで追いながら、私はどきどきしていた。札幌での開催が、オリンピックをずっと楽しみにしていた東京の人たちもよろこんでくれるような大会になったらいいと、いや、そうなる半年後のことを思った。

 

 不安なとき、人はいつも合理的な選択をできるわけではなくて、ときどき間違ったことをする。だいたいのところ私もそうだ。そのことに対して、そういうものだよねって受け入れるのがいいのか、あくまでもそれは間違ってるのだって拒み続けるのがいいことなのか私にはよくわからない。けれど、人が間違えそうになるときそこには不安があり、そして不安の裏側にはいつも失われそうなものに対する希望がある。できることならその「希望」の側のほうに、目を向けられる人間でいられたらいい。

 

◆追記◆

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