モリノスノザジ

 エッセイを書いています

「おばさん」はひとりください

 みょうに胸がどきどきするのはなぜだろう。エレベータの操作盤で「10」の数字を押して。私を乗せた箱がしずかに上昇するそのなかで。その部屋のノブをまわして、重たい扉を閉める。明らかに、必要ないくらいのゆっくりさで。注意なんてしなくったって足音はしやしないのに、なんとなくからだまで小さくなってカーペットフロアをあるいて。そして、その人が顔を上げる。パソコンの視線から外された視線が私を捉え、彼女の顔がじんわりと破顔する。後悔なのかなんなのか、よくわからない感情が私を満たす。彼女は言う。

 

「おつかれさまです。お菓子持っていってくださいね」

 

 ここのところ、毎日のように彼女につかまっている。総務課のおねえさん。だが、「つかまっている」なんて言い方はあまりにも人聞きが悪すぎるかもしれない。なにしろ私が彼女にされていることとすれば、ただお菓子をもらうことだけなのだ。お菓子を渡すついでにつまらない会話に付き合わせようとするとか、見返りとして仕事を肩代わりさせようとするだとか、彼女はそんなことしない。そのうえ、彼女からもらうお菓子はいつだっておいしいのだ。


 じゃあいったい何がこわいのかと言うと、それは、彼女がそうする理由がわからないからだ。

 おいしいお菓子をくれるというのは、まっすぐに受け取れば私に対する好意の表れである。しかし、仮にそうだとしても、私には自分が彼女から好意を寄せられる理由にまったく心当たるところがない。われながら、とても残念なことに…であるが。ある日彼女が突然お菓子をくれるようになるまで、私と彼女との間にはまったくといって接点がなかったし、自分が何の理由もなく他人に愛されてしかるべき人間だとも思わない。お返しもしてない。お菓子をもらって飛んで喜ぶような、ものを与えて気持ちのいい類の人間というわけでもない。

 いっそのことなら、なにか下心があってほしいくらいだ。そう。たとえば、私にやさしくふるまう姿を周りに見せて自らの好感度を上げることをもくろんでいるとか、じつのところおねえさんは私を激しく憎んでいて、お菓子にはときどきごくごく微量の毒薬が盛られているだとか。そもそもそんなふうに考えるのは、私自身が薄汚い下心なしには他人にやさしくできない人間だから…なのだけれど。

 しかし、そういうわけでもなく彼女が本当に何の理由もなく私にお菓子をくれているというのならば、彼女は道行くすべての人々に対してあのように――あふれる笑顔ときらきらした瞳で、いそいそとお菓子箱からお菓子を取り出す――ふるまっているのだろうか?そんなに愛をふりまくことが、イエスでもないごく普通の人間に可能だというのか?それとも彼女は…、神…?

 

 答え合わせは突然やってきた。いつものように書類を持って入室すると、彼女もまたいつものように、私の姿を認めてにっこりとほほ笑む。重箱ほどもあるお菓子BOXの箱をそっと持ち上げて中からいくつかの菓子を取り出して、彼女は言った。「見て~!おばさん、新しいお菓子を入荷したのよ~」

 

 よのなかには、自分自身のことをあえて「おばさん」呼ばわりする女子がいる。男子にもいる。いや、正確に言うと、自分自身のことをあえて「おじさん」呼ばわりする男子もいる。それも、私からすれば到底おじさんでもおばさんでもないような人たちばかりだ。

 彼女もそうである。見たところ年齢は私とそう変わらないようだし、声や表情も若々しくて、いつも雑誌のモデルみたいにおしゃれな服装をしている。いったい彼女のどこが「おばさん」だというのだろうか?

 

 しかし、そもそも「おばさん」ってなんなのだろう?単なる年齢上の区分のことなのか、それともなにか特定の性質を獲得することで人は「おばさん」になるのか…。いずれにせよ、多くの女性が他人から「おばさん」と呼ばれることを快く思わない(たぶん)ことを踏まえると、「おばさん」は決してポジティブな表現ではないことはたしかである。男性に向けられる「おじさん」についてもだいたい同じようなことが言えるだろう。

 人が自らを「おじさん」「おばさん」呼ばわりする理由は、きっといろいろだ。自他ともにそうと認められる「おじさん」「おばさんはともかくとして、例えば、相手の笑いを誘うユーモアのひとつとしてそう呼ぶのかもしれないし、自分自身に向けられるハードルを下げるためにあえて「おじさん」と言うのかもしれない。けれど若い女性がつかう「おばさん」には、男性が自らを「おじさん」と呼ぶときには見られない用法があるような気もしている。それが彼女の言う「おばさん」、つまり、「世話焼きのおばさん」である。

 

 だれだって一度はおせっかい焼きのおばさんに出会ったことがあるだろう。自称「おばさん」ではなくて、根っからのおばさんだ。彼女らは強い。相手の遠慮やとまどいをよそにずかずかとパーソナルスペースに入り込んでは、飴やらチョコやらポケットに突っ込むわ、みかんを持たせるわ、絆創膏を与えるわ、あれこれと世話を焼く。それが迷惑だなんてとんでもない、おばさんほど他人に対してなにかを与えられる生き物がほかにいるだろうか?おばさんというのは、理由もなしに他人に近づいて、他人に与える生き物なのである。

 すると、人が自らを「おばさん」と呼ぶことは、理由もなく他人に近づき、理由もなく他人に与える、その特権的地位を手に入れることに他ならない。彼女が私におせっかいを焼くのは、自らを世話焼きな「おばさん」として位置付けているからなのだ。

 

 高校生のころ、友達になりたいひとがいた。といっても、友達になりたいことに理由はない。ほとんど話をしたこともないくせに、きっと気が合うって確信だけは強くって、一回でもいい。なんとか話ができないかっていつも考えていた。けれど、高校生の私にはわからなかった。異性と、恋愛関係ではない関係をどうやってはじめたらいいのか。恋愛のはじめかたならいまどきどこにでも転がっている。よのなかにあふれる恋愛物語、そのなかで結ばれるふたりの多くは物語の始まりとともに出会うふたりだ。けれど、友達になりたい異性と友達になる物語は多くない。どうやって声をかけたらいいのか、そもそも私はいったいどんな関係を望んでいるのか。私にはわからなくて、結局そのひととは友達になれないまま、声すらかけられないまま、私は高校を卒業した。

 

 思えば、あのときの私に「おばさん」がいればよかったと思う。言葉で自分のことを「おばさん」と呼ぶ必要はないし、中年の女性である必要もない。ただ、胸に「おばさん」を住ませてみればよかった。相手がどう思うかなんて気にしないで、話しかけて、お菓子をあげて、たくさんたくさんやさしくしてあげればよかったのかもしれない。与えたがりで人が大好きな「おばさん」が私のなかにいれば、他人から自分に向けられた無根拠な好意にどれだけ応えられたことだろう。あるいは、そのときでなくても。

 

「あ、森さーん」

 

 廊下を歩いていると、軽やかな声で呼び止められる。振り向くと、満面の笑みの彼女。マスクをしていてもその下の笑顔が透けて見えるようだ。「今日はなんだかオシャレですね!夜に飲み会でもあるのかしら?」と彼女は、いつもどおり冴えない作業着姿の私を褒めてくれる。この感じ…。真性の「おばさん」であるところの叔母さんが、盆や正月に会うたび、私自身に身に覚えのないどこかとぼけた切り口で私を褒めるときに似ている。やっぱりそうだ。彼女は「おばさん」として私に接している…。そう思って、バインダーを握った右手でちいさくガッツポーズを取る。

 「後ろ姿がすっごく洗練されていたから、すごく洗練されている~って思っちゃいました!」という彼女に、あなたこそ毎日、毎日…お綺麗、ですね…はセクハラか。オシャレですよね、って、そんなふうに踏み込んでもいいのだろうか。なんてもやもやしつつ、うんとかすんとかそんな当たり障りのない返事をしたりする。

 

私が「おばさん」になれるのは、まだまだ先みたいだ。