モリノスノザジ

 エッセイを書いています

ジェラシー多治見

 暑さとは体温と気温との乖離の度合いのことなのではないかと、食堂の比較的辛いカレーを食べながら思う。あるいは、冬に新調して敷きっぱなしの毛足の長いラグに両足を投げ出して、缶ビールをすすりながら思う。平熱35度の人にとっての体温38度と、平熱37度の人にとっての体温38度が異なるように、体温が気温と同じくらいに上昇すれば暑さも感じなくなるのではないだろうか、なんて考える。

 

 もともと暑さを我慢するのは好きだった。ひとり冷房の効かない部屋にいて、鉛筆を握る腕にノートが貼りつくのも、背骨を汗が伝うときのすこしゾクッとする感じも、好きだ。地上の空気に含まれた水分を一瞬で焼き払ってしまうようなひどい熱波を浴びながら、コンクリートの歩道を歩くのも好きだ。今は北海道に住んでいてなかなか35度超えを経験することはないけれど、旅行なんかで本州に行ったときに経験する暑さはむしろアトラクションのようにたのしい。ばかみたいに喉が渇いて、ばかみたいに水分を容れられる自分の身体にいちいち驚いて、わくわくする。しかしやせ我慢はよくないので、どうしても暑くて暑くてしかたのないときにはクーラーを点ける。クーラーの効いた部屋で毛布にくるまってだらだらするのもこれまた暑い夏にしかない特権で、要するに私は暑い夏が好きなのだ。

 

 だからだろうか。ーーというのはつまり、私は暑い夏が好きで、なのに今は北海道に住んでいるからだろうか。全国の天気予報を見ると、岐阜や東京の最高気温に聞くだけでめまいがしそうな数字が並んでいて、こんなに暑いとたまらんなって思いつつ、一方でどこかわだかまりのようなものを感じている。「多治見の最高気温39度」の表示を見て、なんとなく落ち着かない。胸の奥がちりついて、でもこの気持ちをうまく言葉にすることができない。いったいこれはなんなのだろう。

 

 

【ケース1】

 始業式の日に顔を合わせて早々、林はこう切り出した。「多治見ってさあ、同じクラスの。美術部なんだけどなんかすごい賞もらったらしいね。それでさっきそこにカメラの人がインタビューに来ててさ、おれは断ったんだけど。それってすごい賞取ったってことなんだろうな、やっぱり」。私は多治見のことをよく知らない。彼はただのクラスメイトで、でも小さいころから家が近くなのでなんとなく名前は知っている。あと、多治見が描いた絵かなにかがときどき展覧会に飾られたり、そのことが新聞に取り上げられたりしていて、そのことを母親が話しているのを聞いたことがある。だけど彼はただのクラスメイトだ。私は絵を描かないし、彼のことをよく知らない。それなのにどうしてだろう。私は興奮する林を無視したままでいようと決めた。

 

 アスファルトの道路や建物に囲われた観測所で例年最高記録をたたき出し、「ズル林」と揶揄された街のことを考えると、「私の街は暑い」というのは、どうやら自慢になるらしい。暑い暑い、暑い、だけどそんな暑さをプラスの力に変えようとする人がいる。そんな舘林にとって、多治見はまさに目の上のたんこぶといったところだろう。やっとのことで今日はめでたく40度、と思いきや、多治見がいつもくらいついてくる。多治見なんてなければいいのに。そう思ったことも一度や二度ではないはずだ。そしてそれは舘林に限ることではない。私もまた、「日本一暑い街」多治見に嫉妬心を抱いている。私の住む街は暑いとか暑くないとかいう話題になるとまったくの場外だし、もちろん個人的に多治見に対して恨みを抱いているわけではないのだが、なぜだか胸にほのかなジェラシーの炎が燃えている。ああ憎い、多治見が憎い―――という話?

 

【ケース2】

 「そういえばこのあいだ祭りで多治見に会ったんだけど」と林は言った。「会ったっていうか、見ただけなんだけどさ。多治見って先輩と付き合ってるじゃん。もうそれが見え見えでさ、こんな近所の祭りなのに。堂々と手つないだりして、ヤバかったな、あれは」。林は、半年前まで私が多治見と付き合っていたことを知らないのだ。あのときの出来事さえなければ、先週の夏祭りで多治見と手をつないでいたのは私だったかもしれない。けれど今の多治見は先輩のものだ。もう私たちは連絡を取り合うこともないし、もちろん、手をつなぐこともない。

 

 私は今北海道に住んでいる。だから、暑い暑いといったところで暑さもたかが知れている。数年前までは本州に住んでいたのだ。多治見ではなくとも、多治見とそう遠くはなくて、多治見と同じくらい暑かったあの街に。私はいつだってそこに帰れる。だけど事実として今はその街にいなくて、そして中途半端に暑くて不快なだけの夏を過ごしている。ああ多治見。多治見に寄せる私のこの感情は恨みや嫉妬のようなものではなく、多治見と多治見の暑さを手に入れられない深い悲しみ。そう、愛なのだ――――という話?

 

 

【ケース3】

 「夏休み何かした?」と多治見に尋ねる。もちろん、多治見も大した夏休みを送っていないだろうとの憶測のもとにだ。けれど多治見は意に反して一転弾んだ表情を見せ、夏休みに過ごしたたのしい日々について語り始めた。「ライブハウスってとこにはじめて行ったんだけど、知り合いが誘ってくれたの。知ってる?ワンドリンク制っていうシステムなんだよ、ああいうとこって。映画館よりもすごい爆音で、それを夜じゅうずっと浴び続けてふらふらになっちゃったんだけどね、よかったなあ」…しかも、私の好きなバンドのライブを間近で聞いたのだという。カーテンから差し込む昼の光で目を覚まし、食事は朝と昼とがどっちでもよくなって、なんだかやる気がなくてTwitterをだらだら眺めるだけの夏休み。そんな夏休みは多治見にはない。いいなライブハウス。いいな爆音。

 

 単純に暑いのうらやましい。

 

 ともあれ暑い日が続くのも考え物だ。朝目が覚めて「〇〇県で1名、××県で2名が就寝中に熱中症で死亡」なんてニュースを聞くと、やせ我慢を続けていては明日のニュースで報じられる側になってしまうと冷え冷えする。暑い夜のさなかに一瞬、涼しい風が肌の表面を通り抜けていく瞬間がとてもいとおしくて、くるかこないかわからないそんなひとときのために暑い夜を我慢してしまいたくもなるけれど、暑すぎる夏にもご用心、である。