モリノスノザジ

 エッセイを書いています

あたらしい皮膚

 私には髪がある。おそらくハゲ家系と白髪家系の掛け合わせと思われる私の頭皮がはたしてこれからどんな成長を遂げるのか、その変化から目が離せない。ここのところ女性を中心に白髪に積極的な価値を認めようとする動きがあるけれど、それがなくとも白髪はうつくしい。すっかりまっしろになった頭髪はなんとなく気高いし、黒い髪がいくらか混ざっているのもとてもいい。

 頭髪が薄くなるのもまたたのしみようだ。頭頂部や生え際がすこしだけはげかけているのはいとおしいけれど、もし私がはげたらいっそのこと、潔く鬘を装着しよう。セカンド・ヘア・ライフとして鬘をたのしみたい。服を着替えるように毎日髪型を変えるのだ。髪を切るのは簡単だけど、短い期間で伸ばすのはむずかしい。けれど鬘ならば、目覚めて10秒でサラサラロングヘアに生まれ変わることもできる。生まれつきの髪とおさらばして始まるセカンド・ヘア・ライフは、それはもう私の人生を変えるだろう。眼鏡をはずして初めてコンタクトレンズを装着したときのように。はじめてパーマをかけたときのように。

 

 私には皮膚がある。日本人と日本人の間に生まれた純粋な日本人の私は、クレヨンの箱に入った「肌色」のお手本みたいな色の皮膚を持っている。これからもその色はきっとそれほど変わらない。けれどときどき、この肌の色が違う色だったらと想像する。重たい金属みたいにギラギラと輝く黒い肌。透きとおる大理石みたいな色の肌。昼と夜の間の、すこしだけ夜のほうに近いときの空の色に似た小麦色の肌。そのどれもが魅力的で、服装に合わせて髪型を変えるように、肌もチェンジできればいいのにと思う。人生は一度しかないのにその一生をずっと同じ髪型で過ごすことは間違いなくもったいないと言うのなら、一生のなかでずっと同じ肌色でしかないのもまたもったいないはずだ。

 

 私が死んで骨になったら、毎日肌を着替えよう。セカンド・スキン・ライフと、ついでにサード・ヘア・ライフもたのしみたい。クローゼットのなかから何種類かの生皮を出してきて、鏡の前で当てる。骨だけは残念ながら生前からの引継ぎで、これ以上に大きくなったりすることはできないのだけれど、肌と髪は日替わりで変えられる。そして眼も。けっきょくめんどくさくなっていつもの組み合わせで出かけてしまうのだけれど、お気に入りがあるのだっていいことだ。死ぬ前はこんなにきれいにならなかったんだよなって思いながら、ブロンズの肌をなでる。見慣れたクレヨンの「はだいろ」も愛着があって、生前から引き続き愛用している。そうやって、セカンド・スキン・ライフはきっと私の人生を変えるだろう。

 

 そうだったらいいのにな、人間と肌と肌の色の関係が。そうだったらいいな。死んだ後っていうのが。