モリノスノザジ

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『天気の子』の結末を私は知っていたはずだった

 映画『天気の子』の感想です。このつづきには『天気の子』・『君の名は』・『秒速5センチメートル』の結末に関する感想が含まれます。ただし、作品のあらすじ紹介や解説は行いません。

 

 2016年の中心は『君の名は』が占めていた。いまどき映画を観る人がいれば映画を観ない人もいて、つまり必ずしもすべての人が映画に対して関心を持っているわけではないのだろう。それでもあのころ『君の名は』は、映画が好きとか比較的好きだという人の層を超えて話題になっていたのではないかと思うし、それは私のところにも届いていた。テレビの特集や知り合いから聞く感想は好感触なものばかりで、その映画に対して批判があったことを知ったのは、実際に自分が『君の名は』を見たあとだった。700万人を超える人が鑑賞してひとつも批判がでてこないわけもないのだし、それはそれなりにそれぞれの価値観をあらわにしているようにも見えて興味深かった。

 

 『君の名は』のエンディングに関して言えば、三葉や村人たちが救われた世界で、私はふたりが出会えないままのエンディングのほうがよかったと思った。大人になった瀧には「漠然と『誰か』を探している」という思いだけが残っていて、でもそれが誰のことなのか、何を探しているのかわからない。ふたりが出会えた結末は幸せなのだけれど、一方で私は、出会えないほうがリアルで切ないじゃないかと思ってしまうのだ。誰だって何かが足りないと感じながら生きている。家族や、毎日顔を合わせる友人だって自分のすべてをわかってくれるわけではないし、運命の人とは出会えない。それでも生きている。何かを探しているような気がしながらそれでも生きているのが私たちで、だからこそふたりが再会できないエンディングのほうが私は共感できると思ったのだ。

 『君の名は』のエンディングに関しては(理由はともあれ)私と同じように「出会えないほうがよかった」派と、「出会えてよかった」派がいるようだ。そして「出会えてよかった」派はそれとは反対に、『秒速5センチメートル』のエンディングを批判する。

 「秒速5センチメートル』を観た後にレビューを読んでいると、こんな批判があった。

 

 結末にがっかりした。大人になると実際こういうこともあるってわかるけど、アニメでそこまでリアルなストーリーにしてほしくなかった。 

 

 「アニメでリアルなストーリーにしてほしくない」という意見に賛同するかどうかは、その人がアニメというものに何を求めているかによって大きく左右されると思う。私は新海誠監督の描く、リアルで、でも現実を超えて美しい世界像というそれだけでそれがアニメーションでなければならない理由であると考えているし、アニメーションにリアルなストーリーはNGだとも思わない。けれど、まあそういうふうに感じる人もいるっていうことだ。

 

 そうやって『秒速5センチメートル』のエンディングを批判した人がいて、では『君の名は』はどうかというと、ハッピーエンドにすればしたでこれまた別の批判が出る。『天気の子』上映に合わせた様々なインタビューで監督が語っているところによると、『君の名は』で世界が救われ・ふたりが再会するというエンディングに対して「なんの代償も払っていない」という批判があったのだそうだ。自分では考えもしなかった批判に目からうろこが落ちる。けれどたしかに言われてみればそうである。よく言われるところの「ご都合主義」というヤツだろうか。

 

 『天気の子』がこうした『君の名は』批判に真っ向から立ち向かうためにつくられたと知ったときから、私は『天気の子』の結末を知っていたはずだった。陽菜が人柱になれば東京は異常気象から救われる。けれど帆高は陽菜といっしょに生きることを選んだ。狂ったままの東京で。ふたりは代償を払ったのだ。『秒速5センチメートル』のようにふたりが離れ離れになることもなく、『君の名は』のように代償なしにすべてを手に入れるということもない。私には『天気の子』の結末がロジカルに考えれば当然の帰着のように思えて、感動するとかどうとかの前にとりあえず納得した。そうか、って思った。

 

 加えて言うと、私はすっかり大人になってしまったんだなあって感じた。途中から私は、帆高についていけなくなった。ああそんなことしちゃだめだよとか、ちょっと興奮しすぎやでとかそんなはらはらした気持ちで見ていて、そうだ。わたしはすっかり物分かりのいい「大人」になってしまったのだ。

 

 物語のなかで東京はひどい異常気象に見舞われている。それは現実でもそうだ。東京だけじゃなくて、日本だけじゃなくて、世界中が狂いはじめている。そして帆高のように若い世代は、これからそうした問題を背負って生きていかなければならない。異常気象だけじゃない。これまでの経済活動のしわ寄せで疲れ始めている自然環境の問題も、国同士の争いの問題も、負担が増し続ける社会保障の問題も、ぜんぶ若い世代が背負っていかなければならない。けれど、たかだか十数年しか生きていない彼らにいったいどんな「責任」があるというのだろうか?親の世代の、そのまた親の世代のしてきたことに対して次の世代が責任を負わなければならないというならまだわかる。けれどたとえば陽菜ひとりが人柱になれば世界が救われるだなんて、そんな「責任」の負わされかたを許していいものだろうか。

 

 この世界は理不尽で、そんな理不尽さを帆高は黙って受け入れられなかったのだと思う。でもそれはぼくたちが幸せならそれでいいっていう無責任でもない。最後にふたりが再会したシーン。祈りをささげている陽菜を見て帆高が「ぼくたちは、大丈夫だ」と確信するのは、陽菜を人柱にささげるという余所から押し付けられた理不尽な仕方とは別のかたちでこの世界に責任を持つこと。その決意表明なのではないかと感じた。