モリノスノザジ

 エッセイを書いています

あたらしい比喩

 非の打ちどころがない結婚式だった。ステンドグラスの代わりに窓を彩る新緑。陽の光がその葉の間を透けてチャペルに差し込んでいる。新郎と新婦の清潔な衣装。長椅子から香る木のにおい。讃美歌。花嫁にふりかかるばらの花びら。手作りのウェルカムボード。おいしくて繊細で意匠の凝らされた料理。テーブルクロス。お色直しの時間に会うように、てきぱきと編集されたふたりのなりそめ動画。親戚。新婦の手紙と、涙をぬぐう白いハンカチ。花束。結婚式を構成する要素というのはおおよそ似たようなものだけれど、だからといってそれをつまらないとは思わない。ほとんど約束みたいになった比喩をひとつひとつ、手触りをたしかめるみたいになぞっていく。ベタだとしても、そんなベタを真面目にやる。新郎新婦、その親族たちの晴れやかな顔を思い出せば一層、それこそが大事なことなんじゃないかって思う。

 

 結婚式は比喩のかたまりだ。「互いに手を取り合って生きていく」なんていうお決まりの言葉もそもそもは比喩なのだけれど、チャペルを歩くときも、披露宴でテーブル間を移動するときも欠かさず新郎が新婦の手を取ってエスコートするさまは、そんな比喩のさらなる塗り重ねのように見える。はじめ父にエスコートされてチャペルに入ってきた新婦が、父の手から離れて新婦のもとへ歩いていくのも象徴的だ。「ケーキ入刀」や「ファーストバイト」だってもちろんそうである。今では定番中の定番となったケーキ入刀も、その原型になった経験がいつかのどこかにあっただろう。愛する人との新生活。日常のなかのさりげないあれこれがなんだって輝いてみえて、ふたり一緒に狭い台所に立ちながら「なんだかこれって、あれだね。これからはずっとこうやって助け合って生きていくのかな」なんて話したりして。そういうかすかな輝きを忘れないようにするみたいに式ではそれに似た行為が行われ、それはやがて繰り返されてもはや約束のようになる。そして、そうした約束のひとつひとつを丁寧に塗り重ねるようにして私たちは結婚する。

 

 そういうベタな比喩の繰り返しで結婚式はできている。そしてそれとは別に、もうひとつ気がついたことがある。別に批判をしたいわけじゃないってことだけ先に言っておく。新婦をエスコートする新郎にしろ、ファーストバイトのうたい文句(?)にしろ、披露宴で新郎・新婦あるいはその父や母に与えられる役割にしろ、結婚式は保守的なジェンダーの考え方に取り残されたままだ。残念ながら現実にはすべての女性が経済的に男性と同等であるとは言えないけれど、かつてに比べれば男女間の経済的格差は解消されている。働く女性が増えれば夫と妻のあり方だって以前とは異なってくるにちがいない。それでも男性は今でも「これから一生食べさせるよ」と誓うし、女性は「一生おいしい料理をつくるね」と約束する。新婦はずっと新郎に手を引かれて歩く。新郎が新婦を気遣いながらゆっくりと歩く様子はこれからのふたりの人生を、そしてそのなかで新婦に注がれる愛情を思わせるものがあってとてもうつくしかったのだけれど、新婦だってひとりでズンズン歩いてもいいのではないかと思う。あるいは新郎の手をとって逆にエスコートしてやってもいいし、なんならエスコートなんかじゃなく、単純にふたり手をつないで歩けばいいのだ。

 

 けれど結婚式には希望がある。たぶん結婚式は、ジェンダーに関する社会の約束がきちんと整備されるよりもはやく、変わっていく。件の「ファーストバイト」も含め、結婚式の演出はすこしずつ変化している。それはなにより、結婚式は伝統的な儀式としての側面を持ちながらも、結婚するふたりの気持ちを反映させることができる場であるからだ。少なくとも、多様な性や多様な家族のあり方が法律のうえで整理させるよりもずっとはやく、結婚式は変わっていくと思う。

 もちろん結婚式は結婚するふたりのためだけのものではなくて、両親やこれまでお世話になった人への感謝の気持ちを表す場でもある。そしてそのためには、伝統やこれまでの約束を重んじなければならないこともあると思う。けれど、今となってはベタな「約束」がかつてはふたりだけの間のほのかな誓いであったように、あたらしい比喩はいずれあたらしい約束になる。そうやってあたらしいことばで語る人がいてはいけないだろうか。これから始まるふたりだけの生活を語るにはあたらしいことばが必要で、それを目に見えるようにするにはあたらしい比喩が必要だ。結婚式は比喩であふれている。これからのわたしたちのことを語るのは、わたしたちでは?