モリノスノザジ

 エッセイを書いています

おなまえ

本屋には一生を費やしてもおよそ読み切れなさそうなくらいの本がある。おおきな本屋であればなおさらだ。かたっぱしから棚をみて歩かなければ一生出会わなかったであろうジャンルの本に、ふつうの本屋ではなかなか見つけられなかった限定版。いままで見たなかで一番わくわくする図鑑に最新の雑誌もずらり。そこはおどろくことばかりつまった嘘みたいな場所で、あの書棚もまた私にとっては未知だった。

 

 足元から天井までずらっと伸びる本棚のひとつぶんに、それに名づけの本たちはきゅうくつそうに詰められていた。男の子の名づけ本に女の子の名づけ本。最新の2019年版であることを前面に押し出す本があると思えば、こちらの本は専門家による姓名判断がウリのようだ。ほかにも、名前の「音」「響き」に焦点を絞っている本や、名づけに使える漢字をひたすら解説する本。そんなたくさんの名づけ本が、2m以上もある巨大な本棚を埋め尽くしている。一度つければ80年は使い続ける名前だというのに、まるで時事問題の参考書みたいに、毎年内容が更新されて最新版が出版されているらしい。こんな様子を見ると、とにもかくにも、やがて子を持つ親にとって「名づけ」とはかくも大事なことのようだ。巨大な本棚が、親が子にそそぐ期待や希望、愛…みたいな、そんな大きな感情の化身のように見えてきて、思わず口からへんな息が出た。

 

 「森 淳(もり すなお)」は私にとってふたつめの名である。ひとつめの名は、両親につけられ普段名乗っている名前のことだ。私に名をつけるにあたって、両親はいくつかの名づけ案を手に神社で姓名判断を受けたという。というからにはそれはもう抜群の運勢、といいたいところなのだけど、調べてみるとどうにも具合が悪い。「森 淳」という名前は、そんな本名が持つ姓名判断上のウィークポイントを改善すべく、すこしずつ名前を変えてはネット上の姓名判断にかけ、自分自身でつけた名前である。いろいろ試してみた結果、わかったのはすべての面において万全な名などないのだということで、結局のところは、本名としての私に欠けている運を補いつつ、そこそこいい感じで、一番気に入った名前を名乗ることにした。

 

 姓名判断というものをどう考えたらいいのか、正直なところ私にはわからない。けれど本名を姓名診断にかけたときに出てくる運勢に人柄なんかを見ていると、ネット診断なのにまるで自分の人生がのぞき見されているみたいに感じてしまう。まるでほんとうに、名前が私の人生に影響を及ぼしているみたいに。

 字画だけじゃない。誰かの名前を知ったとき、その響きや文字の形状がその人自身のイメージとやけにしっくりきて納得してしまうことがある。それもたびたび。言霊みたいなものがほんとうにあるのかどうかはわからないけれど、名前はある程度においてその人の人生を左右してしまうんじゃないかとさえ思ってしまう。少なくとも、何十年も「ゴミ」と呼ばれて育った人が大人になっても決して自尊心の高い人間にはなれないだろうというくらいには、たぶん、関係があるのだ。

 

 そういうわけで、本屋さんにはこんなにもたくさんの名づけ本が並んでいる。名前をつけるのはそれくらい大事なことだっていうことだ。今日も取引先で名刺をもらい、スーパーではレジ係の名札を見る。届いたメールには相手の名前が記されている。いったいこの名前にはどんな願いがこめられているんだろう、なんて考えながら、返信を打つ。