モリノスノザジ

 エッセイを書いています

警察からの電話

 仕事を終えると携帯電話に見覚えのない番号からの着信履歴があり、どうやらこのあたりを管轄する警察署の番号のようだった。留守電には若い男の声でメッセージが吹き込まれていて、「捜査中の事件のことでお聞きしたいことがあります」と言う。後日改めてかけ直すと言ってメッセージは途切れた。電話の内容は単純明快。警察が・私に・聞きたい話がある。だけどちっとも見当がつかない。

 

 いったいなんでけいさつが?

 

 警察から電話がかかってくるのははじめてだ。それも「捜査中の事件のことでお聞きしたいことがあります」だなんて。その言いぶりならどこかで落とし物をして連絡がきたわけではなさそうだし、自分の身元に結び付くような大事なものを失くした覚えもない。一瞬、だれか知り合いが事件に巻き込まれたのではないかと不安になる。けれど、家族は遠方に住んでいるのだし、近くにたいした知り合いがいるわけでもない。もしかして、知らないうちになにかの事件の被害者になっていたということはないだろうか?考えれば考えるほど不安がふくらんで、私は二度目の電話を待たずに折り返すことにした。

 

 数回のコール音ののち「はい、〇〇警察署です」だるそうな男性の声。しかし、電話をかけたはいいものの、警察への電話では最初にどう名乗ればいいのかわからない。「いつもお世話になっております」?いや、警察の世話になったことはない。どんな意味でも。スタンダードに「もしもし」か?それとも名前を名乗るべきなのか?けれど、個人あての電話でもあるまいし「森と申しますが」なんていう一言目はあってもなくても同じようなものではないのか。さっぱりと「そちらから着信があったので折り返しました」と言うのは?名乗りもせずに用件を切り出すなんて、ちょっぴり無礼だろうか?迷いながらもいざ電話がつながるとつい自分の名前が口を衝いて出てしまい、しかしそれは相手の声とぶつかってうまく伝わらなかった。けっきょくのところ私は「昨日携帯電話に着信がありまして」と説明することにして、留守電に残されていた刑事の名を相手に告げる。なんとか担当刑事につないでもらえそうである。

 

 ――その瞬間まで私は自分自身のことをひとかけらも疑ってはいなかった。だから、その質問にはっとする。電話先の相手は私に聞いた。「何か心当たりはありますか?」

 

 なにかココロアタリはありますか、だって?

 

 その瞬間、目の前の景色が暗転する。いや、暗闇のなかで私だけ強く照らされているのだ。窓のない狭い部屋。やたらと背もたれの硬い、つめたいスチール製の椅子に尻を張り付けて、私はデスクライトの明かりに照らされている。「捜査中の事件のことで」・「何か心辺りはありますか?」。警察からの着信履歴をみつけてからいままで、この自分自身が何かの罪を犯した可能性について私はひとときも考えなかった。しかし。これは、試されている。今ここで白状するのか、それともしらを切りとおすのか、私はすでに試されているのかもしれない。

 思わず唾をのむと、喉が思ったよりも大きな音を立てたので驚いた。電話先まで聞こえていなければいいのだけれど。しかし、白状するといってもいったいなんのことだろう?私にはまったく覚えがない。昨日の夜、赤信号の横断歩道を渡ったことだろうか?抜き取ったホチキスの芯の捨て方がわからなくて、こっそり燃えるゴミに捨てていること?気がつかないうちに誰かのものを持って帰ってきちゃったとか?どう考えたって善良な市民である私に、ココロアタリなどあるわけがない。素直に「こころあたりは全くありません」と言うと、電話先の警察官は「わかりました」と言って電話は保留音に切り替わった。

 

 結論から言うと、私はどうやら罪を犯してはいないようだった。住んでいるアパートで原付が盗まれたかなんかの事件が起きたらしく、その原付が止まっていたと思われる自転車置き場について何か気がついたことはないかと尋ねられた。残念ながら私はなにも見ておらず、でも、いつから見ていないか・どうして見ていないかを丁寧に説明した。ミステリの捜査パートに出てくる、ちっとも事件解決の役には立たない住民への聞き込みのようなやりとりをひととおり終えて、取り調べはあっさりと終了した。警察署へ出向くこともない。たった3分間の取り調べだった。

 

 「取り調べを受けちゃうんだろうか」って考えが一瞬頭をよぎったのだった。現実は、窓のない取調室も、かつ丼もなく、そんなものが本当にあるのかどうかも確かめられずに電話は終わった。通話を終えた後のディスプレイをみつめて私はなんだか拍子抜けのような気持ちでいっぱいで、だけれど警察からの着信履歴を見たときに頭のなかをめぐったあらゆる不安のことを考えると、役立たずな住人で終わってよかったとも思う。警察から突然電話がかかってくるなんて、しばらくはもうお腹いっぱいだ。