モリノスノザジ

 エッセイを書いています

どっちでもいいよ

 なかなかうまくいかないなあと思うことがあって、たとえば生涯におけるそれぞれの段階で使えるお金と時間のこと。若いころはありあまるほど時間があるのにたいていの場合お金はあまりなくて、ちょっとしたぜいたくができるくらいのお金を手にするころにはきっと自由にできる時間があまりない。じゃあ子どもと大人の中間であればお金と時間を両方とも持っているのかというとそうでもなく、むしろ両方ともすこしずつしか持っていない。

 それから日中に活動できる時間のこと。やりたいことややらなければならないことがたくさんある10代はとにかく眠くて、たくさんの睡眠が必要だ。一方でぐっすり眠り続けるための体力がなくなってくると人は無駄に早起きしたりして、無駄に長い散歩に時間を費やしたりする。べつにそれ自体まるきり無駄というわけではないけれど。

 

 目が覚めたので、いつもより1時間早く布団から抜け出した。早起きしてしまった老人の例にならって、パジャマをTシャツに着替え、サンダルで外へ出る。朝陽にすすがれていつもよりどことなくいつものまちを河原に向かって歩いていると、だれかの家のまだ暗い玄関の窓ガラスに、私が履くグレーのハーフパンツが一瞬映って消えるのを見た。

 

 私が中学生や高校生だったころ、体育用のハーフパンツは大きめのを着るのが流行りだった。どうしてなのかはわからないけれど、サイズがぴったり合うハーフパンツを履くのはなんとなくダサくて、だれもがほんとうよりもひとまわりやふたまわり大きなサイズのパンツを買って履いた。当時の私は、ハーフパンツのほかにもいろいろなことにこだわりを持っていた。学校指定の青いスクールバックはかっこ悪いので、みんなと同じようなのを買ってもらってそれを使った。青い鞄は入学説明会の日に買ったきり、ビニール袋に包んだまま一度も使わなかった。消しゴムは絶対にAIR-INで、それを机の引き出しに6カ月以上寝かせてから使うことにしていた。今日は前髪がちょっと右にかたよってまとまらないとか、そんなことを気にして毎日を過ごしていた。そんなのほんとうはどうだっていいよ、って言ったらあのころの私は怒るだろうか。でもそうなのだ。どっちでもいいことはたくさんある。

 

 毎日起こるいろいろなことに対して「どっちでもいいか」って思えるようになったのがいつごろからなのか、どんなきっかけでそうなったのかはよくわからない。なにかを間違えてもけっきょくなんとかなったりだとか、なにかを解決するための方法はひとつではないことに気づいたこと。そんな経験の積み重ねがいつの間にか私をそういう人間に変えていたのかもしれない。なにも考えずに生きてきたなりに私は人生に恵まれていて、ちょっとやそっとのミスをやらかしてもどうせ一年後にはすっかりわすれてしまうくらいになんとかなることをいまなら知っている。

 あのころの私はとにかくなにもかもにムキになっていた。こだわっていた。そのなかのいくつかはもしかすると、せまくて限られたコミュニティのなかで自分の椅子を確保するために必要なことだったのかもしれない。けれどそこにはほんとうにどうでもよかったこともいくつかはあったはずで、でも私はそんないろいろのどれがほんとうはどうでもよかったことで、どれがほんとうにこだわるべきことなのかよくわからない。きっとこれからもそうなんだろう。

 

 大きすぎるハーフパンツに、テストの最終日にはかならずドーナツショップに行くって約束、白か黒かで散々迷った末に買ったワンポイント入りの靴下。変なカタチの携帯電話、放課後の図書室のいつもの机。あのころこだわっていたあれやこれを、「どっちでもいいよ」なんて突き放してしまってはつまらなかったかもしれない。けどもしもあのころの私がどうでもよくないことにムキになって苦しい思いをしていたのなら、あるいはこれからの自分がそうやって悩んだり苦しんだりすることがあるとしたら、そのときは思い出したい。どっちでもいいことだってあるよ。きみがくるしいときに思っているよりたくさん。