モリノスノザジ

 エッセイを書いています

幸福のコストパフォーマンス

 帰り道にふと、誕生日のことを思い出す。それならそのようにそれらしく、甘ったるいふわふわにろうそくでも立てて食べてやろうか。そう考えてスーパーのスイーツコーナーを覗いてみるのだけれど、なんとなくどれも食べる気がしない。けっきょく特売のオレンジ5個を買い物カゴに入れただけで会計を済ませた。家に帰ると先週買ったオレンジが冷蔵庫のなかにまだ4つ残っていて、しかたがないので古いほうのオレンジにマジックでそう印をつけると、あたらしい5つのオレンジといっしょにふたたび冷蔵庫にしまった。

 

 ここのところおやつを食べていない。食べたくて買うのにいざ食べようとするとなんとなく気が進まなくて、そういうお菓子が台所の戸棚にたくさんしまってある。私が子どもだったころは、大人は好きなものをなんでも、好きなだけ食べられるのだと思っていた。ケーキでもポテチでも、ご飯が食べられなくなるからって怒る大人もいない。働く大人は好きなものを好きなだけ食べられる。それは実際のところ、いくつかの意味で子どもが見る甘い夢に過ぎなかったのだけれど、私の場合は社会人の経済力に関する見立ての甘さだけではない。どうやら私にとってあたらしい誕生日を迎えるということは、だんだん誕生日ケーキを食べられなくなることだったみたいだ。

 

 そういうこともあってスイーツを食べることは必ずしも私にとって幸せなことではない。幸いにして太りにくい体質ではあるものの、食べすぎれば胃がもたれるし、夜食べれば眠れなくなる。だからふと甘いものが食べたくなってふらりとスイーツコーナーに引き寄せられたとしても、つい考え込んでしまう。

 たしかに私はプリンが食べたい。クリームがたっぷり乗っかったつめたくて甘いやつ。だけどこのプリンを食べることで、私はどれくらい幸せになれるだろうか?プリンを食べる前と食べた後とで、どれくらい幸福度が上がっているだろうか?プリンを食べてお腹を壊すようなことがあれば最悪だ。そうなると事前にわかっている場合は、もちろんプリンを食べないほうがいい。しかし、おいしくプリンを食べたところでそれはどれほどの幸せだろうか?カラメルを底まですくって、プラスチックの容器をごみ箱に捨てる。もう次の瞬間にはプリンのことを忘れている。たいていそうだろう。そうだとしたら、はたしてプリンを食べる必要はあるのか?これはプリンの価格とプリンがもたらす幸福とを比較しているのではない。プリンを食べることによってもたらされる幸福が後からふりかえってかぎりなくゼロに近いのであれば、プリンを食べるという行為そのものが無駄なのだ。われながら面倒なやつであるがしかたがない。

 

 そうやっていちいち逡巡することもあり、とりわけスイーツに関しては衝動買いを抑えられている。そんな私が迷わず散財するのはただひとつ。マットだ。私は足の裏の皮を剥ぐのが趣味で、暇さえあれば皮を剥いでいる。そういうわけもあって、私の足の裏は(きっと)ふつうの人の足の裏よりずっと感覚が鋭敏だ。なにしろ皮を剥ぎすぎてここのところ毎日靴下を血で染めてるくらいだ。外部刺激と神経を隔てる足の皮もずいぶん薄くなっていることにちがいない。そんな足を持つ私にとって、踏み心地のいいマットは何よりの癒し。何よりの幸福である。足が沈み込むほど毛足の長い、ふわふわな玄関マットもいい。パイルの踏みざわりがカラッとさわやかなバスマットもいい。踏み心地のいいマットは踏むだけで最高で、踏む前も踏んだ後もずっと幸せな気分でいられる。歯を磨きながらふかふかの玄関マットを踏みしめて、足の裏のやわらかい心地を感じながら眠りにつくのはどれほど幸せだろう。

 私にとっては、100円のプリンよりも4000円の玄関マットのほうがずっと、幸福のコストパフォーマンスが高いのである。