モリノスノザジ

 エッセイを書いています

〇〇は若いうちに

 瀬戸内国際芸術祭に行きたい。それでガイドブックを買ったところまではよかったのだけれど、瀬戸内の島々の風景を切り取った美しい写真の数々に、展示が予定されているアート作品に時を忘れることもあれば、一方で現実的な不安もふくらんでくる。

 

 まず、開催地へのアクセスの問題だ。瀬戸内国際芸術祭が開催されるのは香川県に岡山県。北海道から行くには、飛行機と電車、それに船を乗り継いでいかなければならない。新千歳空港から岡山空港までの直行便があるのが救いだけれど、北海道から見てみればはるか西の別世界。そのうえ、実質的な展示場所となる島までは船を乗り継いでいかなければならない。ふねってなんだ?毎日時刻表も見ずに4分おきにやってくる地下鉄で決まったルートを往復しているだけの都会人にとっては、複雑な電車の乗り換えも、島と島をつなぐフェリーへの乗船も、乗り越えるには高すぎるハードルだ。

 というか、島ってなんなのだ?ご飯食べるところはある?ひとつの島をまわるのにどれくらいの時間がかかる?この島からこの島に行くにはどうしたらいい?宿は?ガイドブックに書いてあることもあるし、丹念に調べればわかることではあるのだろうが、どうにも想像がつきにくい。それぞれの島にこれだけたくさんのアート作品が展示されているというのに、日程の都合上ほんの少ししか見られないとしたらもったいないような気がする。

 3シーズンパスポートが一般4,800円、会期限定(1シーズン)パスポートが4,000円といった値段設定からもわかるのは、瀬戸内国際芸術祭は必ずしも外から来る人〈だけに〉向けたものではないということだ。開催場所に近い地域に住む人たちや、実際にそこに住んでいる人たち。ゆっくりと時間をかけて、三つの季節を通じて何度も作品をめぐってもらい、そのたびに新しい出会いや気づきを得てほしいってメッセージを感じる。芸術祭は必ずしも外から人を呼び込むための道具ではなくて、その場所で暮らす人たち自身のためのものでもあるのだ。

 

 とはいえ、たとえ船の乗り方がわからなくたって、一度しか行けなくても一日しかいられなくても、貯金が心もとなくても、けっきょくのところ私は行くと思う。ひとつには、こうした特定の場所に置かれることを前提に制作されたアート作品は、いま・そこに行かなければ二度と見られなくなってしまうこと。だからいま行かなければならない。そして、いま行かなければならないもうひとつの理由は、これからの人生のなかで一番若い〈いま〉行くことにこそ意味があるからだ。

 私がはじめて美術館に入ったのはだいたい5・6年前のことだ。まったく知識がないなりに年に何回かは東京に行って作品を見たりもして、考えられることがずいぶん増えた。それは、作品を観ていいなと思った経験も気に入らなかった経験もぜんぶが積み重なってできたもので、アートについて何かを語ることはできなくても考えることはできる。考えるための材料がすこしずつ増えてきたのだ。そしてそれはすこしずつ、切れ目なく重ねてこなければならなかったもので、「いつか余裕のできたときに」すればよかったものでは決してない。

 

 「若いうちに海外に行っておいたほうがいいよ」とか「たくさん遊んどいたほうがいいよ」ということの意味を私はこう考えていた。ひとつは体力の問題。これは納得する。仕事を辞めてからやっとたっぷり時間ができたとしても、何十時間も電車を乗り継いで旅をしたり、一日中テーマパークを歩き続けたりするのは体力的に無理がある。そして時間の問題。大人はとにかく忙しい。たとえ経済的に無理をすることがあろうとも、やりたいことはやる時間のある若いうちにやっておくに越したことはない。だいたいお金なんて、一生懸命働いていればあとでそれなりについてくるものだ。だけどアート作品を観ることについては、それとはべつの意味で、これかわの人生のなかで一番自分が若い〈いま〉やっておかなければならないことだと思う。それは人生のなかのどこにその出来事を置くかという位置取りの問題ではなくて、そこから継続して経験していくための時間を確保するということだ。

 

 単においしいものを食べるとか、きれいな風景を見るとか。たしかにそれはたのしいことだけれど、それだけで必ずしも若いうちにすべきだと私は思わない。たしかに歳をとれば身体的にも精神的にもなにかをするためのハードルは高くなるのかもしれないけれど、なにもかもができなくなってしまうわけじゃない。いまできることのなかにはあとでできることもある。だけど経験を積んでいくことは、いまからじゃなくちゃできないのだ。だから私は瀬戸内国際芸術祭2019に行く。これまで歩いてきた道にひとつぶんの足跡を付け加えるために。