モリノスノザジ

 エッセイを書いています

ふたつの答え

 なんだかここのところアニメだとかゲームだとか、自分の好きなものに関することばかり書いている気がしている。他に書くことがないわけでもなければ、ブログで自分の嗜好を漏らすのに味を占めたというわけでもない。幸福なことにここのところは、生きていくために必要なことや日々やらなければならないこまごまとしたことを片付けて、そのうえで好きなことに時間を割くための余白を確保することができているし、またそれを生み出すこともできている。そんななかで自分と「好きなもの」との関係についてつい考え込んでしまうこともあって、そういうわけでそうなってしまうのだと思う。

 

 「好きなものを好きな理由」という、わかりきっているようで取り掛かってみれば雲をつかむような問いに出くわしたのは、彼らが展示会を開くだなんて言い出したからだ。前代未聞、ゲーム実況者グループが催す「展示会」。多くの視聴者がそうであった(たぶん)のと同じように、私は困惑した。そしてその困惑を手際よく処理するより先にチケットの販売受付ははじまって、私は自分がほんとうに展示会に行きたいのかどうかわからないまま、気がつけば入場チケットを手にしていた。展示会の開催場所は東京・池袋。ここからは電車と飛行機を乗り継いで6時間かかる。

 言っておくけれど、私は彼らが何をしようと無条件でよろこび、金を払うような生粋のファンではない。ちゃんとした分別のあるおとなだし、自分が支払うコストとそれによって得られるであろうものとの比重について考える慎重さも持ち合わせている。それを機能させるわけにはいかなかったのは、なにしろ展示会の内容がわからなかったためだ。そもそも「イベント」と名のつくものに無縁な私は、展示会以前にその類のイベントとはどういうものなのかわからない。さらにゲーム実況者の「展示会」となればなおさらだ。いったい何が展示されるというのか。時間と金をかけてそれを見に行ったとき、はたして自分はどういう気持ちになるのか。なにもわからないまま私はとうとう飛行機の座席でシートベルトを締めていて、「好きなものを好きな理由」とは何なのか、ずっと考えていた。

 

 私は自分自身のことを「オタク」だとは考えていない。なぜかって、私はTwitterもなくYouTubeもそれほどメジャーじゃなかったころを知っている世代の人間で、そういう世代にありがちなように、「オタク」という人種に対してかなり偏ったイメージを抱いているからだ。そして自分はそんな「オタク」とは違うと思っている。あのころの「オタク」と言えば、チェックの寝るシャツをジーンズにつっこみ、両手には美少女アニメキャラのいかがわしいイラストがプリントされた紙袋。汗で曇った眼鏡。『電車男』で描かれたベタなオタクのイメージだ。

 それに、たとえアニメやゲームに興味を持ったとしても私は決して入れ込まない。好きになった作品を盲目的に称賛する信者でもなければ、アニメキャラに本気で恋するわけでもない。好きなものと私との間には常に正当な距離があり、私は世の中にあまたあるコンテンツのひとつとして節度ある関わり方をしていると感じている。そしてそれは、「オタク」がする関わり方とは違うやり方なのだって、そう思っていた。

 

 だというのに今の私はなんだ?会ったこともない実況者の、得体も知れないイベントに参加するために休みを取って飛行機に乗っている。こんなのはひいきめに考えたって、私が忌避し、自分とは違うと思い込んできた「オタク」がする行為に近いものを言わざるを得ない。節度ある距離を保って付き合ってるんじゃなかったのか?決して入れ込まないんじゃなかったのか?揺れる飛行機の中でもうひとつ、私は葛藤とも戦っていた。

 

 池袋の朝はなんだか貧乏くさい雨で濡れていた。とてもたくさんの人たちが会場の列に並び、しかし意外にも、私が思っていたようなベタなオタクはいなかった。若い人も非常に多くて、みんな快活で人懐こく、やさしかった。あれだけ緊張していたのが冗談みたいだ。たまたま列で隣に並んだ見ず知らずの他人と「混んでますね~」って会話を交わしたり、互いに整理券を見せ合って順番に並んだり。なにもこわくなかった。そこには私が思い描いていたオタクはいなくって、みんな私のように普通の人たちばかりだった。ああそうか。こんなイベントに参加するくらい、別にオタクでもなんでもない。ただ好きだってだけなんだ。

 

 すこし下の世代になれば、オタクに対して私のようなベタベタの偏見を抱いている割合も少なくなるのだと思う。インターネットをつかうこととか、ネット配信でアニメやゲームをたのしむことが特別ではなくなってきた時代。前時代的なオタクもいるにはいるのだろうけれど、それよりももっといろんな人がいろんなやりかたでアニメやゲームをたのしんでいる。そしてそれでいい。そう思っていいんじゃないだろうか。

 

 結果から言うと、私は東京に行ってよかったと思っている。ひとつは彼ら/彼女らファンたちと出会って交流して、何かを好きでいるってことに対してオタクだとかオタクじゃないとかそんなことを気にする必要はないんだって気づいたこと。アニメやゲームを、それ以外のものだって、いろんなやり方でいろんな人が楽しんでいて、そのことに引け目を感じたりする必要なんてないんだって気づけたことだ。

 

 そしてもうひとつ、実際に展示会に足を運んではじめて、自分が何かを好きだっていうのはどういうことなのか、なんとなくつかみかけたような気がしている。東京に行く前にあれほど気にしていた、「展示会に行って何が得られるのか」ということを、今ではそんなに気にしていない。展示会そのものがたのしくても、たのしくなくても、私にとってはどっちでもいいんだ。もちろんたのしませようと思って準備されたものをたのしめればそれは一番いいのだけれど、重要なことはそうじゃない。生み出されたものが気に入ろうと気に入らなかろうと、作り手を信頼しているということ。信頼して彼らのつくりだしたものはできるだけ見に行くんだっていうこと。それが、私が何かを好きだっていう感情の正体だって気がついたのだ。

 

 村上春樹が言う著者と読者との間の「信頼の感覚」がしっくりくる。「信頼の感覚」とはたとえば「『村上の出す本なら、いちおう買って読んでみようか。損にはなるまい」と思ってもらえるような信頼関係」。たとえば『新しく出た村上さんの本を読んでがっかりしました。残念ながら私はこの本があまり好きではありません。しかし次の本は絶対に買います。がんばってください』という手紙に込められているような感覚。

 

私が何かを好きなとき、そこにあるのは作り手との間の「信頼の感覚」なのだ。

 

※村上春樹の「信頼の感覚」については新潮文庫『職業としての小説家』から引用。