モリノスノザジ

 エッセイを書いています

モテは財産

 書棚に伸ばした手と手がふれあって、アラ、ドキ。お互いに顔を赤らめながら本を譲り合ったりして、どういうわけだか場所は喫茶店に移りその本の著者の話に花を咲かせている。帰り際にはしっかり連絡先を交換したりして、なんだか何かがはじまりそうな予感―――なんてことは起こっていないし、毎日死んだような表情で通勤ラッシュの駅に通っている。こんなにもたくさんの人が朝の雑踏にはいるというのに、そのうちの誰とも恋ははじまらない。一人くらいひとめぼれしてくれてもよくはないだろうか。春なんだから。

 

 そうは言ってもモテは大事だ。恋人なんていなくったって毎日やりたいことでいっぱいだし、話し相手が欲しいわけでもない。結婚に切羽詰まっているわけでもない。毎晩寝る前に電話するとか、毎週土日はデートなんて考えたくもない。しかし、そうは言ってもモテは大事である。

 極端な話、たとえ恋人や配偶者がいたとしてもモテていたいと思う。自分が愛するたった一人の人だけが私を見ていてくれさえすればいい、なんてきれいごとだ。誰だってモテないよりはモテるほうが嬉しいし、同じモテであればより総量が多い方が良いに決まっているのだ。

 社会をモテという視点で見たとき、現代社会において、ごく一握りの裕福な人たちが自身の持つ資本をうまく活用して増やしたより多くの富を蓄えている状況とイメージが重なる。モテる人は単にモテるだけでなく、そのモテを活用して自身の魅力を高めているのだ。誰だってモテればうれしいし、いい気分になる。自己肯定感が高まり、他人にも優しくできる。そうしてもともとモテる人はさらに「出来た人」となり、ますますモテる。こうしてモテる人は、自身が保有するモテを資本によりたくさんのモテを蓄えていくのだ。

 もちろん、モテはお金と違って社会全体で流通する総量に上限はない。だから、モテる人がそれを資本によりモテるよう成長していくとしても、それによってモテが一部のモテる人によって独占されるということにはならない。しかし実際の社会においては、人はモテる人とモテない人とに分かれてしまっていて、その原因はやはりモテ増幅の第一歩となる「最初のモテ」があるかどうかなのだ。

 たとえ恋人や配偶者がいたとしてもモテるほうがいいというのは、個人的に、特定の一人と一人の間に芽生える感情と、不特定多数から不特定多数に向けて寄せられるモテとは根本的に別種のものだという感覚があるからだ。モテが一人対一人の間で起こる恋愛の契機になることはあるかもしれないけれど、たいていの人は恋人に向ける気持ちと同じ感情をアイドルやYoutuberに向けるわけではないし、そうである以上はモテを求めてもなんら問題はないと思う。

 

 けれどつくづく考えてみれば、他人から寄せられる「好感度」を得点みたいに考えて、モテがどうのモテないがどうのと理屈をこねているこの姿こそが非モテの根源のような気も…して、くる。

あああ、ここまで書いてきたことは嘘です。不特定多数から寄せられるモテなんていりませんから、どうかただ一人私を愛してくれる恋人がいつかあらわれますように。春だから。