モリノスノザジ

 エッセイを書いています

おしゃれも戦略から

 おととい、約一年ぶりにコンタクトレンズを装着した。うんざりである。ひさしぶりにコンタクトを着けるそのたびに、眼鏡越しにぼんやりと見ていた自分の顔とはっきりとした視界にとらえる自分の顔とのギャップに息が止まりそうになる。唇の縁、粘膜から皮膚に変わるあたりの微妙な色合いの変化もコンタクトならよく見えるし。唇の赤でも肌の肌色でもない、微妙にオレンジがかったその境目の色が嫌いなのだ。年相応に頬の毛穴が気になったりもするし。同じ視力に合わせてもらっても、眼鏡だったらこうは見えないのに。

 

 コンタクトを着けていると、服装もいつもと違って見えるから不思議だ。いつものコーディネート。いつもの鏡。いつもの時間帯。なのにコンタクトを着けているだけで、なんだか今一つに見える。顔の毛穴と違って、服装なんておおざっぱな形や色の組み合わせ。普段よりも多少はっきりと見えたって変わるはずもない。のに。なんだか今日は決まらない。最初に合わせたコーディネートから、別の色のジャケットに変え、パンツもなんとなく丈感が気になるので変更し、そうなるとインナーも気になってきて、結局全身着替える羽目になる。こんなにも決まらないのはもしかすると、いつもの眼鏡がないからじゃないだろうかという気すらしてくる。それくらいいつもの服が決まらない。

 何度も着替えて、その都度やっぱりおしゃれになれない自分を見るのは悲しい。ダサい自分を認めて改めていかなければおしゃれにはなれないことをわかっていても、失敗を乗り越えて成長していくことに意味があるのだと頭でわかっていたとしても、自分が失敗する姿を見るのはつらいことだ。だから、できるだけ失敗はしたくない。

 

 おしゃれで失敗しないためのひとつの方法は、頼れる定番デッキをつくることだ。アウターはこれ、インナーはこれ。ボトムスはこれで靴はこれ。土日のどっちかでたまに出かけるときに着るくらいなら、多少同じ組み合わせで被っていても問題ない。できれば季節ごと、目的ごとにいくつかのデッキがあるといい。デザイナーでもファッションモデルでもない一般人に、毎日創意工夫を凝らしたコーディネートをする必要があるだろうか。あらかじめ着る服の組み合わせを決めておいて、機械的に服を選んでしまえばダサい自分に悩まされることもない。われながらすばらしいアイデアだと思う。

 反対に「逆デッキ」をつくるのもひとつの方法かもしれない。一度試してみていまいちだった組み合わせを逐一記録しておく。次の土曜日に服を選ぶときには、その組み合わせはもうダメだとわかっているから別の組み合わせで。そうやって休日を繰り返していくうちに、実際に服を着てみる前から「ダメな組み合わせ」がなんとなくわかるようになっているかもしれない。

 

 小学校ではミニバスケットボール部に入っていた。小さいころから運動が大嫌いなこの自分が、ミニバスケットボール部?という感じもするけれど、私が通っていた小学校では部活がミニバスケットボール部と水泳部しかなかったのだ。ミニバス部に入るととにかく合言葉のように「速攻」を教え込まれた。相手からボールを奪ったら、すぐさまパスをつないでゴールを目指す。戦術なんて言葉も知らない小学生だったけれど、先生に教え込まれた「速攻」はいつまでも覚えている。しっかりとした戦術を組み立てる頭がなくても、バスケットボールのセンスがなくても、「速攻」だけ知っていればなんとかバスケができたのだ。

 コーディネートデッキは「速攻」に似ている。時間がなくても、センスがなくても、いつもの定番の、あらかじめのやり方さえあればそれでいいのだ。もちろん「速攻」がいつも効果的なわけではない。相手はこちらの作戦をよく知っていて裏をかいてくるし、場面によっては別の攻め方をしなければならないときがくる。そんなとき、敵を出し抜くには敵をよく観察すること。ダサい自分から逃げない。頼れるデッキも頼れないデッキも、両方が勝利の道につながっていると信じたい。