モリノスノザジ

 エッセイを書いています

本棚のコカイン

 このごろ話題になっているコカインというやつを、本棚から取り出して私も味わってみる。船山信次『〈麻薬〉のすべて』は新書という手軽な形態でありながら、麻薬全般に関する基礎知識や主な薬物の歴史、作用、社会での受け止め方など基本的な事項を網羅している。芸能人が薬物取締法違反で逮捕されるたびに、私はこの本を本棚から取り出して話題の薬物の項目を読む。そうして私は、ひとり、またひとりと芸能人が薬物で逮捕されるたびに、すこしずつ薬物に詳しくなっていく。

 私は一冊の本をあたまから終わりまでひととおり読んだとしても、その本に書かれている内容を知識として定着させることができない。必要なときに必要な部分を読む、少し経って、別の部分を読む必要が出てきたら、その部分を読む。時間がかかるけれど、そうやって繰り返していくことでしかほんとうの知識にすることはできないような気がしていて、そういう意味ではこういう方法で薬物の知識を増やしていけるのはわりに悪くない方法だと思っている。そのきっかけとなる出来事自体の善し悪しについてはともかくとして。

 

 ピエール瀧容疑者の逮捕や、逮捕をきっかけとした出演作品自粛の動きに関連して「見せしめ逮捕」という言葉を耳にすることがある。見せしめというからには、それは同じく薬物に手を染めている人、あるいはこれから薬物に手を染めるおそれのある人に対するメッセージということなのだろう。薬物を使用したら逮捕されるし、そのほかに社会的制裁も受ける。だから薬物は使用してはいけませんよ、ということだ。

 彼の逮捕を報道するマスコミらが社会における薬物使用抑制という観点における自らの役割についてどれくらい自覚的なのかはわからないけれど、すくなくとも彼が逮捕されてから数日間の報道を見る限りでは、逮捕のニュースを徒にセンセーショナルなやり方で報じているものが多いと感じた。逮捕当日、大手ニュースサイトに掲載された記事を見ていて驚いたのは、コカインについて「効き方がマイルド」とか、他の薬物に比べると「物足りない」と書かれていたことだ。一見するとコカインが比較的安全な薬物であるように受け取られてしまう可能性もあるし、薬物としてのコカインとはどんなものかという点に関してとても無責任な記事だと思う。彼の逮捕が見せしめだというのであれな、薬物使用によって受ける社会的制裁といった副作用よりもまず、薬物使用そのものがもたらす悪影響をまず報じるべきだし、薬物に関して読者に誤った認識を持たせる記事は読まれるべきではないと思う。ましてや、事件の何カ月前に公園で立ちションをしたとかそんなばかばかしいことを面白半分に報じる記事は論外だ。

 

 正直なところ、コカインの作用の一面だけを見れば薬物に手を出したくなる気持ちがわからないわけでもない。コカインはアッパー系の薬物で、服用すると「ハイ」になるという。気分が高揚し、爽快な気分になる。精神が興奮して、次から次へと考えが止まらない状態になる。幸せな気分につつまれる。落ち込んだり、いわゆるスランプみたいな状態で行き詰ったとき、そんな状態から助け出してくれる魔法の薬があると言われたらすがりたくなってしまうのではないだろうか。誰かが薬物を使用して逮捕されたときに「どうしてそんなことしちゃったの」という人がいるけれど、私は自分が絶対に薬物をやらないと信じることはできなくて、もしそうした薬物のいい面ばかりを、自分が弱っているときに見せられたとしたら、もしかしたらころっと傾いてしまうのかもしれないな、と思う。

 ただ、その一方で私は薬物がもたらす悪影響について読んで知っているし、過去の薬物使用が原因で病気になった人と話をしたりしたこともある。そして、いまのところは、薬物によって得られるものと失うものとでは、失うものの方が多いということを理解している。

 

 たしかに日常はつらいこともある。嫌なイベントがあっても早送りしたり飛ばしたりすることはできなくて、うれしいことに費やすのと同じだけの時間をかけて味わっていかなければならない。退屈なことを繰り返さなければならないこともある。一見意味のないように思えることをしなくちゃならないこともある。そんなすべてを一気に吹っ飛ばすような魔法があったらいいのかもしれない。たしかに薬物という魔法は、日常をすべて吹き飛ばすかもしれない。けれどもそのなかには、ささやかだけれども大事な日常だってあったはずだ。

 そんな魔法なら、魔法はいらない。世の中のいろいろな出来事をきっかけに本を開いて知らなかったことを新たに知るよろこびとか、きょう食べた新発売のチョコがおいしかったなとか、そんな小さなしあわせを少しずつ消費して生きていければいい。私は、本棚にある「コカイン」でも十分たのしく生きていける。

 

〈麻薬〉のすべて (講談社現代新書)

〈麻薬〉のすべて (講談社現代新書)