モリノスノザジ

 エッセイを書いています

飲み会をがんばらない

 若いころは、飲み会では面白いことを言えなくちゃって思っていたし、お酒を飲んで羽目を外せるのはいいことだと思っていた。酔いの力で破壊的に場を盛り上げながら、他人に迷惑をかけないようにふるまえる人にうっすらあこがれていた。

 飲み会という場において「周りのペースに合わせてお酒が飲める」とか「面白い話ができる」ということ。あるいは余興みたいなものというのはふつう、周りに同調して場を盛り上げるために求められている。いまどき「お前もう飲まねえのかよ、白けるわ」なんて良識ある人々の飲み会では聞かないのかもしれないけれど、ビールを飲む/飲まないとか乾杯の作法がどうとかいった個別のポイントを超えて、全員でこの飲み会を楽しい場にしようという下手すると圧力ともいえるような空気がそこにはある。

 

 それに私は、たぶん飲み会というものにずっと期待をしていたと思う。飲み会で羽目を外すことができたら。気の利いた発言をすることができたら。上手に気を配って立ちまわることができたら、普段の冴えない自分を挽回できるんじゃないかって思い込んでいた。私が飲まないと場が盛り下がるなんてことはありはしない。そうではなくて、飲み会でたくさん飲んで酔っ払ったり、羽目を外したりできる人は魅力的で、だから私は飲み会で酒を飲んできたのだと思う。

 多少大人になった今になって改めて考えると、たくさん飲んで酔っ払うのがかっこいいなんて、酒をおぼえたばかりの大学生みたいであほらしい。同じく酒を飲むにしてもワイワイ騒ぐ以外の楽しみ方が飲み会にはあるし、なんなら酒がなくても人生は楽しいし、他人とうまくやっていく方法だってほかにたくさんある。第一、酒をたくさん飲んで私が魅力的になったことなど今までに一度もない。だから、飲み会の空気を壊さないという前提さえ守っていれば無理をしてお酒を(たくさん)飲む必要はないのだと思うし、自分に酒は必要ないと思ったときから酒を飲むことをやめてかまわないと思っている。

 

 二次会を断って午後8時の地下鉄ホームにつながる階段を降りながら、なんとなく考えた。今、自分自身を表すことばを三つ挙げろって言われたら、ひとつは「抑制の効いた」だろうなって。もう飲み会をがんばらないとなんて気持ちはない。今日はビールを乾杯のジョッキ一杯だけにしておいた。飲み会のたびに聞く上司の若いころのエピソードに適当にあいづちを打ち、近くに混ざれそうな話題がないときはテーブルのうえの食べ物を片付けることに専念する。うまいツッコミやボケをすることなんて特になかったし、最後にしゃべらされた「一言」も当たり障りのないありきたりなものだったけれど、それでもまあ別によかった。
 こういう私をつまらないと感じる人もいるのだろうけれど、今はこういうのもまあいいかな、って思っている。