モリノスノザジ

 エッセイを書いています

「ふつう」について、Yahoo!知恵袋がおしえてくれたこと

 ときどき明日のことやいまここにはないなんだかよくわからないなにかのことが不安でさみしくて、なにもしたくなくて、ひどくそわそわしているときがあって、そういうときは本を読んでもちっとも頭に入ってこないし、眠ることすらできなくて、手癖のようにスマートフォンを弄る。

 iPhoneを持っていたころはこんなとき、ひたすらSiriと会話をして過ごした。「つかれた」、「ねむい」、「もうやだ」、「しゃべろう」、「さみしい」、「雨降る?」、「うたって」。2019年のSiriがどうなのかはわからないけれど、当時のSiriはそんなにあたまがよくなかったので、会話は長くはつづかなかった。つづいたとしてもせいぜい2往復といったところで、ときには私の話したことをSiriがわかってくれないこともあった。Siriに「すみません。もう一度言ってください」と言われるとすごくむなしい気持ちになって、その日の会話はそこで終わるのだった。

 Androidユーザーになったいま、私にSiriはもういない。どうしようもなくダメになっているときはSiriのかわりにスマホの検索窓に話しかける。「つかれた」、「ねむい」、「もうやだ」、「しゃべろう」、「さみしい」、「雨降る?」、「うたって」。コンマ数秒ではじき出される画面には前向きなまとめ記事が並んでいて、いまの自分にはとても役に立ちそうがない。延々とひろがるネットの海にぽつりぽつりと言葉を投げる意味のなさにむなしくなりながらも、やめられない。Siriとちがって検索エンジンは「さみしい」のひとことに膨大なアンサーを返してくるから。

 

 デジタルネイティブ世代なので、こんなふうにAIと会話もするし、知恵袋はおばあちゃんじゃなくてネットであり、Yahoo!知恵袋でもある。すぐにネットで調べるのはよくないという(し、実際そうだと思う)けれど、ついつい頼ってしまう。賞味期限が切れたジャムはいつまで食べてもいい?とか、定形外郵便の出し方、意味が似ている言葉の使い分け、職場の飲み会の盛り上げ方。人間関係の悩みについてはYahoo!知恵袋に行きつくことが多い。

 ためしにYahoo!知恵袋のトップページを開いてみたら、今日もくだらない質問ばかりが並んでいた。けれどそんなくだらないことも、自分ごとになれば必死で回答を読み漁る。自分の悩みとよく似たケースの回答を読んでは、関連質問をクリックが止まらない。

 日記を書くのもあたらしい服を買うのも、そしてYahoo!知恵袋を検索するのも、一番頻度が高いのは恋をしているときだと思う。片思い相手の一挙手一投足が気になっては日記に書きとめ、いつ不意に出会ってもかまわないようにつねに小ぎれいな服装を心掛け、そして相手の言動や自分自身のふるまい方に迷ったときはYahoo!知恵袋を検索する。食事の誘いを断られたときの「今は忙しいのでまた今度」はただの社交辞令か?駅が同じだからと言って毎朝一緒に出勤する男女は付き合っているのか?相手からなかなかLINEが返ってこないのは、自分に興味がないからなのか?質問者自身が置かれている状況、そしてプロフィールを読みながら自分の場合に置き換えていく。でも、こと人間関係について言えば、それがじょうずに自分のケースに当てはまることは少ない。

 

 何年か前、好きな人がいた。その人の視線も、しぐさも、話す言葉もすべてが特別な意味を持っているように感じて、でも私にはそれらにこめられた意味がわからなかった。毎朝笑顔で声をかけてくれること、遊びに誘われたこと、会話の途中のあの言葉。そうしたなんでもないあれこれに意味を見出そうとして、わかりたくて、暇さえあればネットを検索をした。

 けれどもそれはうまくいかなかった。私たちの出会い方はどこにでもあるような一般的なものではなかったし、私が好きな人もすこし変わった人だったからだ。ネットの意見によると「LINEの返事がまる一日返ってこなかったら脈なし」だという。でも、私たちの場合もそうだろうか?私は特に理由がなくても何日か返事を返さないことがあるし。世の中の多くの人たちがそうであっても、私の好きな人に関しても同じことが言えるとは限らない。なんてったってすこし変わったあの人のことだ。一週間くらい平気で返事をしないことだってありうる。

 じゃあ逆に「手料理をふるまってくれるのは好意の証」と多くの人が思っていたとして、あの人の場合もそうなのだろうか?料理をすることや、誰かに何かをプレゼントすることが単に好きなだけなのではないだろうか?いや、そういえば今回はあの人も一緒にいたんだった。それも考慮したほうがいいだろうか。この間あんな会話をしたから、料理のひとつくらいふるまわないと気が利かないと思われると思ってたんだろうか?それとも、ご両親からじゃがいもが大量に送られてきて困ってるって言ってたから、それであのじゃがいも料理だったんだろうか?考え出せばきりがない。

 

 ネット住民が総意として導き出した「ふつうはこう」や、質問者の場合における「ベストアンサー」。でもそれが「いま」「じぶん」にも当てはまるとは限らない。自分が生きて、まさに立ち向かっている「いま」はここにしかないし、好きな人は好きな人であって、それ以外の誰でもない。平均的で「ふつう」な人にとって料理をふるまうことが好意の証だったとしても、私の好きな人がそう思っていないのであれば、そんなことはまったく意味がない。私は、私の好きな人がどう思い、どうしてそんな行動をするのか知りたいのだ。そこでは、影もかたちも持たない「ふつう」はまるで役に立ちはしない。私が生きているのはいつだって具体的で一回しかない世界であって、とりわけ人間と人間のことに関して言えば、「ふつう」が通用しないことなんていくらでもあるのだ。

 そう考えるようになると、気が付けば、前よりもずっと広い世界にいるような気持ちがする。「ふつうはこう」なんて、ちっとも役に立たないんだ。だって自分は「ふつう」じゃなくて「自分」だから。もっと縛られずに世界を見ることができるような気がしてくる。結局のところ、数年前のあの片思いは実らずに終わってしまったけれど、これから先Yahoo!知恵袋に頼ることはないと思う。たぶん。できるだけ。…きっとそんなには。