モリノスノザジ

 エッセイを書いています

顔が「ほんとう」?

 眼鏡をはずして声だけのニュースを聞いていると、メイ首相の声がひどくガラガラで驚いた。低くしゃがれていて、まるで映画の悪役だ。イメージ命の政治家としてこの声は良いのだろうか、いやむしろ声は変えられないのだから、こんな悪役声でよくも政治家になれたものだと感心する。今までニュースでメイ首相を見てきてそんなふうに思ったことはなかったけれど、声だけを聞くとずいぶん変わるものだ。

 

 声しか知らない相手と初めて対面してイメージが変わるという経験はよくある(ない?)。つまり、私は相手の声を聞いただけで、声に含まれている情報以上のことをイメージしているのだ。そして、声だけしか知らなかった相手と実際に会ってイメージが変わったり、普段映像でメイ首相を見ているときに声が気にならないことは、だれかのイメージをつくるときに私が声よりも顔に大きな信頼を寄せているということを示している。

 ふしぎなことに、声だけを聞いてつくるイメージは、性格ではなくて「外見」であるようだ。そうでなければ、初めて顔を見てイメージとの違いに驚くということを説明できない。声と顔との間になんらかの関係性があるのかはわからないけれど、無根拠かつ無意識のうちに私はこういうことをしてしまっている。

 

 『人は見た目が9割』という本があったけれど(読んではいない)、確かに私たちは外にあらわれるいろいろな要素から人を判断することがある。たとえば服装や顔立ち、表情、身長、身体つき。声質や話すスピード、声のトーン、口調。このなかでも表情や口調については、生まれつき持った顔立ちや身長と比べるとある程度自分でコントロールする余地があるのかもしれない。

 それでは、こうしたいろいろな要素のなかでどんな要素がより重要なのだろうか。たとえば、服装と顔立ち。オシャレな(だけの)人と顔がいい(だけの)人ならどっちを選ぶ?人によって考え方の違いがあるかもしれないけれど、私ならダサくても美女のほうがいい。同じように、多少話し方が気に障ったとしても、だみ声の丁寧口調よりは透きとおる美声のほうに心惹かれると思う。くやしいけれど。このとき私は、コントロール=演出可能な部分よりも演出不可能な部分にその人の「ほんとう」を見出して、その「ほんとう」を評価しているみたいにみえる。それってつまり、自己演出できない部分こそがそのひとの「ほんとう」だということだろうか?

 

 私はセルフイメージの演出が苦手だ。たのしくもないのにニコニコしたり、明るい声で話したり、社会に甘えていない大半の大人がきちんとこなすことを私はできない。毎日やっていたらそれがやがて「自分」になっていくのだと思う。だから、自分に変えられる部分を変えていくことは自分じゃなくなることではないし、必要なことでもあると思っている。でもできない。一方で、つくられたイメージで表面がガチガチに固められた人には警戒してしまう。笑顔も受け答えも完璧な受付のお姉さんみたいな。それっていったいなんなのだろう。そこには、演出されたふるまいはつくりもの、にせものみたいな意識があるんだろうか?

 

 インターネットで知り合ってから現実で会う、ということがこの頃はふつうに行われていて、それを「リアルで会う」と言うことがある。逆に言うと、インターネットを通じた出会いは「リアル」ではないということだ。メールをなん十通やりとりしようと、スカイプでなん百時間会話をしようと、その結果相手の考えや人となりをどれだけ知っていたとしても、それは「リアル」ではない。つまり、会うことの「リアル」は声でも内面でもない、顔にあるということなのだろうか?

 

 あとで聞いたところによると、メイ首相はあの日風邪をひいていたらしい。つまり、あの声は風邪で喉がつぶれているときの声色だったのだ。悪役とか言ってごめん。はやくよくなってね。