モリノスノザジ

 エッセイを書いています

Tシャツのヘンな英語をわらうな

 水の流れに逆らって滝を上流へ上っていく鮭のように私は黒いかたまりのなかを上へ上へと歩いていて、何かと思ったらそれは通勤ラッシュのさなかの駅の階段なのだった。押し合いへし合う黒コートの隙間に鮮やかな色合いの紙袋がふっとあらわれて、そこに『BLOOMY FLOWERS』と書かれているのを見る。満開の花。よく見ると、文字の周りに赤いのやらピンクいのやら花のイラストが描かれている。ああそうか、満開の花。

 そのロゴは特別たいしたことを表現しているわけではない。紙袋に花のイラストが描かれていて、そして中央に『満開の花』というロゴ。もしこれが日本語で書かれていたら、と思うとなんだかとたんに古びて工夫のかけらもない紙袋のように見えてくる。こんなふうに外国語を盛り込んだ広告やお菓子のパッケージは街じゅうにあふれていて、そんなあれこれがこの先日本語に回帰していくことがあるだろうか、と考えてみる。そんな未来は、この『BLOOMY FLOWERS』のかわりにどんな言葉がデザインされる未来だろうか?考えてみるけれど、私の力ではどうやったってセピア色にしかならない。広告が日本語に回帰する未来は、残念ながら私にはまだまだやってこないみたいだ。

 

 木下龍也さんという歌人がいる-。彼はUTmeマーケットで自らデザインしたTシャツを売っていて、これがとてもしびれる(https://utme.uniqlo.com/jp/front/mkt/show?id=212662&locale=ja)。しびれるけれど、私はこれを着る自信がない。Tシャツに描かれていることば自体はさすがだなあと思うのが、やはりというかTシャツのメッセージが日本語で書かれているのがしんどい。いや、このTシャツが痛いとかしんどいとかそういうことではなくて、日本語がプリントされたTシャツを着る場面を想像するとしんどくなってくる。

 この辺はファッションに対する意識の違いがあらわれるところかもしれないけれど、衣服にまで〈意味〉があるのはつらいな、と思ってしまう。対面して言葉のやりとりをする。表情。身振り。いろんな方法で私たちは情報を発信したり受け取ったりしていて、そのうえでTシャツにも文字が書かれていて、しかもその〈意味〉を読み取ることができるとしたら、その状況が私にとってはちょっとしんどい。

 

 Tシャツに書かれている英語はめちゃくちゃだ、といって嘲る人がいるけれど、それでいいのだと思う。私はTシャツに書かれた文字に意味を求めないし、なんなら単なる「かたち」として見ている。極端なはなし、「かたち」さえ美しければだれにも読めない文章であったってかまわない。お菓子のパッケージや紙袋に描かれた外国語のロゴも同じだ。過剰な情報に窒息してしまいそうなとき、意味の分からない「かたち」は有用だ。

 だから、Tシャツのヘンな英語を笑ってはいけない。あれは〈意味〉が氾濫した海に颯爽と投げ込まれた浮き輪なのだ。