モリノスノザジ

 エッセイを書いています

Dear My Chair(and Honey!)

 「私のどこが好きなの?」に対する最良の答えはなんなのかという問題の答えに、人類はまだ到達していない。容貌をほめるのか?努力を称えるか?性格のよさを評価するか?それともファッションセンスを?能力を?経済力を?それとも「ぜんぶ」と言う?

 残念ながら、私はこの答えのすべてが間違っていると思う。手足がすらっとした女の子や、毎日欠かさず三食つくる女の子は世界中にごまんといる。やさしい女の子も、ジーンズが似合う女の子もたくさんいる。彼女が持つ特徴のひとつを取り出してみたところで、それはあなたが彼女を好きな理由を説明していることにはならない。やさしい女の子がいっぱいいるなかからただひとり彼女をえらんだのなら、そこには大多数のやさしい女の子たちと彼女とを区別する何かがあるはずだ。仮にそれが「八重歯」だとしても、やさしい八重歯の女の子もまたたくさん存在する。ほかのやさしい八重歯の女の子と彼女とを区別するのが「ほくろ」であるとしても、ほくろでやさしい八重歯の女の子だってたくさんいる。そうやってどんどんどんどん要素を付け足していっても限りなく「彼女」に近い女の子ができるだけで、それはあなたが好きな「彼女」そのものではない。「彼女」っていったい何者だろう?

 

 実際のところ私たちは、世界中にいるほくろでやさしい八重歯の女の子たちのなかからたった一人の彼女をえらびだすようなことはしていなくて、手近なところにいた彼女と、まあ、なんとなく気が付いたらそうなっていたということだ。だから世界中にいるあまたの人たちのなかでなお彼女だけを好きな理由なんていうのは説明できなくて、しかし手近なところにいるから付き合ってみたらいい感じだっただけだよ、とも言えなくて、つまりこれは難問なのである。

 

 その点、椅子はいいものだ。「私のどこが好きなの?」って聞きたそうなそぶりなんてすこしも見せやしないし、同じ部屋にほかの椅子があったって気にしない。いつもどっしりと構えていて、私が座るのを待っている。あなた、私を捨てられないんでしょう?と言わんばかりに自信に満ち溢れている。そうして実際に私は椅子たちを捨てられない。

 自分が椅子を好きだと気が付いたのはつい最近のことだ。床に座るときに楽になるような座椅子がほしいとか、おしゃれな美術館にあるようなデザインチェアがほしいとか、庭があったらハンギングチェアを置きたいとか、歳を取ったらロッキングチェアに座りたいとか、とにかく椅子のことばかり考えている。そして、部屋のなかを見渡せばすでになん脚も椅子がある。一人暮らしなのに二人掛けのソファ、リビングテーブルにチェアが2脚、デスクにスツールが1脚、折り畳みの椅子が1脚。いったい私はいつから椅子のことがこんなに好きだったのだろう?

 

 私は洋服も家具も文房具も、100点じゃないと購入しない。ボタンの形が気に入らないとか、金具の色がシルバーがよかったとか、自分の理想と少しでも離れたものは買わないことにしている。だから、わが家にあるものはすべて100点だ。もちろん、椅子もすべて100点。けっして高価なものばかりではないけれど、十分吟味してえらんだものばかり。部屋のなかにいくつ椅子があったって、そのどれも別の椅子の代わりになんてならない。すべての椅子が100点で、すべて私に必要な椅子だ。

 100点の理由を説明するのはむずかしい。「ぜんぶが好き」なんて雑な言い方はしたくないけれど、ちゃんとえらんだ理由はある。布地の色。背もたれのカーブ具合。脚の木目。手触り。私が探せる範囲にも、私が手に入れられる品物の範囲にも限りはあるけれど、そのなかで限りなく一番好きに近い椅子がきみだ。だからきっとわが家にいる椅子たちは、私が人間のだれかを好きになるよりずっと高い精度で私が好きなものたちだと思う。

  私が出会える範囲にも、私が思いを伝えられる範囲にも限りはあるけれど、そのなかで限りなく私の好きに近いのがきみだと言えば、はたして彼女は理解してくれるだろうか?たぶん理解はしてくれないと思うし、私が彼女だったら理解しない。人間はむずかしい。そんな人間にくらべれば、やっぱり椅子はいいものだ。

 

 しかし、いや、そうかな?限りなく100点の椅子と、限りなく100点の女の子は同じだろうか?違うかもしれない。背もたれのカーブや布地、奥行き、高さ、色合い、におい、てざわりの全部が100点な椅子がもしも複数あったとしたら、そのなかのどれかを特別な椅子として選びだす必要はないだろう。

 けれど、女の子は違う。ほくろでやさしい八重歯の女の子たちのなかで、それでもやっぱり彼女だけが特別なのだとしたら、私が椅子を好きになるときの仕方と、女の子を好きになるときの仕方は違うということだ。1点を100コ積み上げた100点に近いという理由が「彼女」にはまかり通らないのであれば、「彼女」と椅子の好きになり方は本質的に違うはずなのだ。だから、顔も性格も生活習慣も、声も背の高さも全部100点の女の子がいたとして、それでもそれはあなたが好きな「彼女」ではないのだとしたら、きっとその隙間にあるものこそがきっと、ちまたで言うところの「愛」っていうやつなのだ。

 

 いったい「彼女」って何者だろう?