モリノスノザジ

 エッセイを書いています

未来予想図は描かない

 これを地図なき道を行く、なんて言えたらかっこいいのかもしれないけれど。

 

 京都で学生時代の友人たちと会っていた。大学を卒業してから何度か、場所を変えて集まっている。一度目は石川、二度目は長野、三度目は兵庫、そして今回は京都。均質でどこまでもつづくように思えた20代は終わりにさしかかり、再開を重ねるにつれてそれぞれの人生はすこしずつ変わり始めている。ひとりはこのあいだ入籍した。もうひとりは、この3月に今の仕事をやめ、引っ越しして彼女と結婚する予定だという。

 彼はとても計画的だ。マイペースそうに見えて実はまじめで、いつだって締め切りには間に合うようにちゃっかり準備しているし、意外と他人の言動をよく見てうまく立ちまわっている。彼女とは大学時代から付き合っていて、今は同棲している。今の会社はいつかやめるとかねてから話していたけれど、営業マンとしてひととおりの仕事ができるようになったこと、転職のタイムリミットを考えてこの春退職するという。引っ越し先は関西を予定している。彼女の実家と、彼のふるさとのちょうどまんなかで、そういえばそれも学生時代から話していた計画のとおりだ。高齢になる祖父母のためにも、地元へ帰りやすい場所に住みたいのだと言う。

 彼はとても計画的だ。

 

 直接ことばに出しはしないけれど、彼が私のことを心配しているのはなんとなくわかる。そしてそれは、私が彼と違って計画的に人生を歩めないからだ。無計画なわけではない。私はいつでも真面目だし、ひとつひとつ筋道を立ててものごとに取り組むこともできる。けれどそれは懐中電灯のようなもので、照らせる範囲は広くない。せいぜい半年といったところか。私は長期的な見とおしを立てることが極端に苦手なのだ。というか、ほぼできないに等しい。

  今回のお題『私の未来予想図』へのエントリーを見ていると、かなり具体的な予想図を描いている人が多くておどろいてしまう。3年後はこうなっている、5年後は、7年後、10年後はこうなっていたい。どんな暮らしをしていたい。何を買って、いつどんな仕事をして、誰と出会って、結婚して、子どもがどうなって、資産がいくらになって、どんな自分になっていたい。どうしてみんなそんなに先のことを考えられるのだろう。

 

 考えても努力しても足元しか照らせない私だけれど、このごろは、まあそれでもいいのかと考えられるようになってきた。けっきょくのところ私は自分以外の人間になったことがないので、まあそういうものなのだと思い込むこともできるようになった。それに、無計画な人生でもいまのところくいっぱぐれることもなく、それなりに安定した生活を送れている。そしてその裏には、失敗を重ねながらもその都度リカバリーして道をひらいてきた自分がいる。変えられない自分に失望するより、現に努力して人生を変えてきた自分を信じたい。まあたぶん、ちょっとくらい道をまちがえたって自分なら大丈夫なんじゃないかと思えるくらいには迷いながらここまできた。今はそれなりに元気だ。

 私はきっとこれからも迷走するのだろう。先なんて見えないから、足元だけを見て必死に歩いて、そうしているうちにどこだか全然わからないところへ行っちゃったりするんだろう。でも、その結果なにかにぶつかったり、つまずいたりしてもたぶん大丈夫だ。だって、わたしはこれまでもそうやってここまで歩いてきて、そして、それ以外の歩き方は知らないのだから。

 

 5年後、10年後はいったいどうなっているんだろう。きっと今の私には想像もつかないような未来になっていると思う。これまでだってそうだったから。遠い未来を見渡して、道筋を描いて、描いた道筋のとおりに歩いていくこと。私にはそれができない。その代わりに、いつだって私は自分が想像もしなかった場所に行ける。地図を描くことが、未来の自分が歩む道を制限することなのだとしたら、未来が見えない私はどこまでも行けるのかもしれない。

 変えたい。私のダメなところを、まだ見ぬ世界へ旅経つための魔法に。そして、変わりたい。

 

私は。

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