モリノスノザジ

 エッセイを書いています

共感性のマーカー

 文章を書くとき、無意識のうちにことばを使い分けていることがある。たとえばこの文章、過去形ではなくて現在形にしたのはなぜだろう?主語が「ことば」ではなく、「私」なのは?そして、その主語の「私」が実際には省略されていて、文章のなかに直接現れない理由はなぜ?

 なにげなく書き分けていることばのあれこれを、日本語を英語にうつしかえたした場合にどのような要素が失われ、どのような要素が残るのか、という観点から論じているのが牧野成一著『日本語を翻訳すること』(中公新書)だ。たとえばひらがなとカタカナ、漢字の書き分けによるニュアンスの違いは英語に翻訳した場合にも保つことができるのか?受動態で表される原文が、英語の能動態に訳された場合に、文章から伝わる情景はどのように変化するか?といった問いかけをとおして日本語がもつ特性に迫っていく。

 「です/ます」文体の切り替えだとか、数量が明示されない名詞をどうとらえるかという問題だとか、日本語ネイティブとして無意識に考え分けているあれこれが、実例を交えながら説明されている。作中では実際に日本語で書かれた文章がしばしば引用されているのだけれど、プロの作家というのは日本語が持つそういった特性を理解したうえで使い分けているのだろうか?と考えてしまう。

 

 「複数標示の『タチ』は一体何か」というチャプターがある。そこでは、ある名詞が複数であることを表す「たち」という接尾辞は、話し手/書き手の対象に対する「共感」の心理を示していると指摘する。たとえば、次のふたつの文章はどちらも間違った文章ではない。

 

A:男の子が4人遊んでいた。

B:男の子たちが4人遊んでいた。

 

 けれど、AとBとで受ける印象は少し違うかもしれない。著者によるとAの文章とBの文章とでは、話し手/書き手と「男の子」との心理的な距離に違いがあるという。「たち」が付かないAの文章における男の子は不特定多数の男の子を示すのに対して、Bでは「たち」がつくことで男の子と話し手/聞き手とが心理的に近い距離にあることが示されている。

 「たち」という接尾辞をつけることによって示される共感の心理は、相手が人間である場合だけにとどまらない。私たちが「犬たち」「蛍たち」「薔薇たち」というとき、そこには対象に対する愛着や親しみの気持ちが込められていたり、指し示す対象の目線に寄り添う気持ちが反映されているのだという。

 

 動物や植物、家具や食べ物なんかに対して「たち」をつける人というのは確かにいて、それがそうしたモノたちに対する共感の表れだというのも、たしかになんとなく理解できるような気がする。大量殺犬鬼は「街中の犬たちを殺してやる」とは言わず「街中の犬を殺してやる」と言うのだろうし、「うちのワンちゃんたち」というおばさんが実は自宅で犬を虐待しているというのもなんだかしっくりこない。

 

 こんなちょっとしたことばの使い分けにも話し手/書き手の心理(あるいは、話し手/書き手が表現したい気持ち)が映り込んでいるのだと思うと、なんだかうかつに発言できないものだなあと思う。実際のところ、どこまでが筆者の主張するとおりかはわからない。けれど、私たちが実際に、ちょっとしたことばのニュアンスから話し相手/書き手の態度を読み取ろうとしていることは確かであって、逆に誤ったことばの使い方によって誤ったニュアンスが伝わってしまう可能性があることも確かだ。そういったちょっとしたニュアンスの違いを読み取る力は、生まれたときから日本語を使い親しむなかで、私たちのなかに少しずつ養われてきたものなのかもしれない。

 

 私はペットに「ちゃん」付けをする飼い主が嫌いだ。正確に言うと、ペットに対して私にも「ちゃん」付けで呼ぶことを暗に要求するような飼い主が嫌いだ。「うちのワンちゃんかわいいでしょ~?」と言われたときには、自分でもほんとうにばかばかしいとは思いながらも「ほんとうにかわいいですね、この犬」と言い返してしまったりする。その犬のかわいさに同意したとしても、なんとなくかたくなに「ちゃん」付けはしたくない気持ちがあって、その理由はなんだかよくわからない。特にこれといった信念があるわけではないのだが、なんとなくちょっとだけ反抗したい気持ちになってしまう。

 接尾辞「たち」が話し手/書き手の対象に対する共感の心理を示しているというのなら、動物や植物に対して「ちゃん」や「さん」をつけるのも同じように対象に対する愛情や親しみを込める表現なんじゃないかと思う。少なくとも「犬」とばっさり言い切る私より「ワンちゃん」と呼ぶおばさんのほうがその犬に愛着を持っているだろう。

 誰かが他人や自分以外の世界をどう見ているのか知りたいときには、その人がそれを呼ぶときの呼び方に注目してみるのもひとつの方法かもしれない。私もこれからは、内なる心の冷たさが伝わらないように、何回かに一回くらいは「さん」付けで呼んでみようと思う。「ちゃん」をゆるせるようになるにはまだすこし時間がかかるかもしれないけれど。

 

日本語を翻訳するということ - 失われるもの、残るもの (中公新書)

日本語を翻訳するということ - 失われるもの、残るもの (中公新書)