モリノスノザジ

 エッセイを書いています

「意識高い系」キライ系

 春の訪れを前にして花がすこしずつひらきはじめるように、春以降の公演情報がすこしずつ聞こえてきた。チケットを買って4月以降の手帳に予定を書きいれると、なんだか気持ちだけ先に春になったような気持ちがする。

 演劇はまだ片手で数えられるほどしか観たことがなくて、それだからひとつひとつの観劇がとても新鮮だ。劇場の規模も違えば出演者の数も違う。大がかりなセットがあったりなかったり、音楽や映像演出に凝っているもの。内容もシリアスなものからコメディー風のものまで、ほんとうにいろいろ。限られた空間のなか、過去から未来へ途切れなく・さかのぼりもしない時間のうえ、という空間上・時間上の制約があるなかで物語をみせていく工夫。そんなところも見ごたえがあって、いまのところ演劇の予定がいちばん楽しみな予定だ。

 

 好きなことはいっぱいあるけど、あんまり人には話さない。週2でジムに通ってることとか、ときどき外国のニュースサイトに目を通すこと、演劇を観ること、休みの日も早起きすること、読書。多くの人にとって親しみやすいのは、休日はまる一日寝て過ごし、趣味はドラマ鑑賞、年に一回友達や家族とディズニーに行くような人みたいだ。私は自分の好きなことを人に話して共感された覚えがないし、ときには「へー、意識高いんだね」で終了。べつに高尚な趣味だって褒めてほしいわけじゃなくて、ただ好きなことを話したいだけなのに、人はわかってくれない。だから、私は好きなことを人に話さない。

 「意識高いね」とか「意識高い系」って言われるのは嫌いだ。なかには心の底から褒めているつもりでこの言葉をつかう人がいるのかもしれないけれど、私にはどうしても嘲りを含んだ言葉としてきこえてしまう。Wikipediaでも「意識高い系」という言葉は次のように定義されている。


自分を過剰に演出する(言い換えれば、大言壮語を吐く)が中身が伴っていない若者、前向きすぎて空回りしている若者、インターネットにおいて自分の経歴・人脈を演出し自己アピールを絶やさない人などを意味する俗称

「意識が高い」という言葉は、言葉本来のポジティブな意味合いから離れ、すでにネガティブな意味合いの言葉へと変容しているのだ。

 そうはいっても、自分がそういった意味合いでいうところの「意識高い系」にあたるのだとすれば、素直に受け入れて反省する覚悟はある。けれど私は自分と「意識高い系」の人々との間には違いがあると思っているし、だから「意識高い系」といっしょくたにされるのは嫌だと思っている。じゃあ、私と「意識高い系」の人々はどう違うのだろうか?そして、仮に「意識高いね」という言葉を発した本人には揶揄する意図がなかったとして、その言葉を素直によろこべないのであれば、その理由はなんなのだろう?

 

 「意識高い系」というとこんなワードを連想する。ボランティア・英会話教室・海外留学・セミナー・「人脈」・自己啓発などなど。もちろん、ボランティアに取り組む人がみんな意識高い系と言いたいわけじゃないし、海外留学をする人のすべてが意識高い系だと思っているわけではない。何かに貢献しようという気持ちからボランティアに取り組む人と「意識高い系」の人とを分ける何かがあるとしたら、それはボランティアに参加することの価値を誰が評価するかという点だと思う。

 困っている人のためにボランティアをしようと考える人は、ボランティアをすることに価値があると信じている。その行動によって、すこしであっても困った人の役に立つことができると信じている。一方で、「ボランティアをすることは価値あることだと思われている」と信じているからボランティアをする人がいるとしたら、その人はやはり「意識高い系」と言われてしまうのではないだろうか。英会話教室やセミナーもそう。自身がどう思うかではなくて、その行動や行動によって演出される自己像が社会に評価されるか否かを基準に行動する人は「意識高い系」だと思う。そして私は「意識高い系」ではなくて、自分の好きに従って行動していたいと思っている。

 

 ではなぜ私は「意識高いね」と言われるのが嫌いなのだろう?というかそもそも、人が「意識高いね」というときの「意識」が、なんに対する意識なのかよくわからない。たとえば「栄養バランスを意識してるね」とか「風邪対策が意識的にできてるね」と褒められるのはいい。むしろうれしい。それに対して「意識高いね」というのはいったい何に関してどういう感想を持たれているのかさっぱりわからない。もっと具体的に褒めてほしい。いや、ちゃんと話を聞いていればそんなふわっとした褒め言葉はでてこないはずであって、「意識高いね」という言葉で人を褒めたような気になっている人はきっと、それ以上私が取り組んでいることに興味を持っていないのだ。それ以上奥へ踏み込むのをやめて、その時点で私をどの箱に入れるか判断したのだ。私は「意識高いね」という言葉の影に、そうした相手の無関心さを感じ取っているのだと思う。

 

 とはいうものの、私だって案外他人には興味がないタイプで、知らないうちに「意識高いね」なんて言ってしまっているかもしれない。よくないことだ。これからはもっとちゃんと褒めることにする。「毎日フロスかけるなんて、歯の健康のことをよく考えていますね」とか「朝停電してたのに、こんなにも寒いなか水で洗髪してまで出勤するなんて会社員の鏡ですね」とか「仕事終わりに英会話教室に通うなんて、グローバルに活躍する意欲にあふれてますね」とか。。

 …もしかして、うっとうしい?むしろ「意識が高い」って言葉に対して鈍感になることのほうが、この相互無関心社会を生き延びていくには有効な戦略なのだろうか。…うーん、「意識が高い」を意識しすぎか?