モリノスノザジ

 エッセイを書いています

当ブログのハーフバースデーにあたって

 このブログに初めて記事を投稿してから半年が経ちました。ブログの裏側にいる私自身のことを長々と語るのはあまり格好のいいものではありませんが、いったんの区切りとして目指してきた今日だけ、いつもとは違うスタイルで書かせてください。

 

 このブログのこれから

 今回の記事では見出しを使用しています。普段書く記事ではあまりないことです。

 なぜ見出しを使わないかというと、見出しを使うと記事を書くのがとても楽になるのです。たとえば、一つの記事を書くために2~3のエピソードを準備するとします。それらを読み手にもつたわるようにうまくつなげるためには、おのおののエピソードを並べる順番に工夫を凝らさなければなりません。盛り込みたいエピソードが似たものどうしであればそれほど深く考えなくても自然に文章ができますが、エピソード同士に距離がある場合はよく考えて構成しなければなりません。

 しかし、見出しを使えば文章全体の構成や文章の「つなぎめ」はさほど気にする必要がありません。このため、見出しは非常に使いやすい道具です。記事を量産したければ、見出しをうまく活用することが重要になるでしょう。

 けれど、このブログはちゃんと文章を書く場所にしたいな、とおもっています。むずかしいことですが、これからも努力していきたいとおもいます。

 

文章を書くことにこだわるわけ

 私は口頭でのコミュニケーションがうまくできません。その理由は、私が考えるときの特性にあります。

 私は私以外になって考えてみたことがありません。なので、他の人がどのように考えるのかわかりませんが、私が考えるときの仕方はわかります。私は川面のうえを走る小石のように考えます。物事と物事を飛び飛びでむすびつけて考えるのです。まったく種類が違うものとの間に類似性をみつけるのも得意です。ときどき考え方をまちがえることもありますが。

 これは何かというと、物事と物事を線でむすんで考える力が欠けているということです。他人が「A→B→C」と考えるところを、私は「A→C」とか「A´→C´だからA→C」と考えてしまいます。だから、自分が考えるように話すとたいてい他人に理解してもらうことができません。

 また、私は「自分が知っていて他人が知らないこと」を意識しながら話をすることが苦手です。相手も自分と同じことを知っているという前提で話をしてしまうことがしばしばです。

 先ほど、見出し無しで文章を書くためには文章全体の構成や文章のつなぎめを意識する必要があると書きました。これは、普段「A→C」とスキップする思考に「A→B→C」のルートを歩ませることであり、前提を共有しない他人にも伝えたいことを伝えるための訓練でもあります。

 また、スキップする私の思考は、ある意味ではエッセイに向いているとも考えています。「三題噺」という言葉もありますが(これは落語の言葉ですが)、エッセイはまるで別々に見える複数の事柄が思いがけずむすびつくとき、それを目にしたときのちょっとした驚きも楽しみのひとつだと思います。その意味では、社会にはまったく不適合な私の思考も、ここでなら居場所を見つけられるような気がしています。

 これが、私が文章で書くことにこだわるわけです。

 

ブログの名前は変えます

 当初は「一つのお題に対して7つの視点で記事を書く」ことを目標としていました。独りよがりなエッセイブログにならないために考えた方法でしたが、その路線はとっくにやめてしまいました。なので、「7」を冠したブログ名は近いうちに変更する予定です。木はそのまま立てておきますので、アイコンを目印に、また来ていただけるとうれしいです。

 

 最後に

 アクセス数なんて気にしない、自分が好きなように書けばいい。と言えればとてもかっこいいのですが、正直なところそこまでさっぱりとはなれません。このブログを見に来てくださる方がいること、そのおひとりおひとりに感謝していますし、そうでなければ半年間続けることはできませんでした。

 あまり大したことを言うとプレッシャーになってしまいそうですが、ここへ来てくださるあなたにとって、ここが楽しみな場所になるように、半年と一日目の明日からも、ブログを続けていきたいと思っています。