モリノスノザジ

 エッセイを書いています

歌会をめぐるジレンマ

 短歌とはしばらくの間距離を置いていたのだけれど、今週から再開することにした。ことばに関することで私が短歌から学ぶことはとてもたくさんあって、それが復帰する理由の一つだ。エッセイ(一応そういうことでやらせてもらってます)を書くことと短歌を詠むことは私のなかで何かもう根本的に違っていて、エッセイを書くことは短歌を詠むよりも、なんというかずっとマッスルな作業だ。それでも作歌をするうえでの気づきにはとても貴重なものがあるし、何を短歌にして何をエッセイにすべきなのか、そういったことを考えるうえでも、短歌を続けることは私にとって重要なことだと思う。

 あとは単純に、短歌仲間とあれこれ相談しながら同人誌をつくるのも楽しい。基本的には他人にまかせきりで申し訳ないのだけれど。それに、短歌には歌会といって互いに持ち寄った歌について意見交換をする文化があって、そこに顔を出すのも面白い。ほかの参加者がどういった視点で歌を読む/詠むのかを知ることができるし、単純に自分の歌が褒められるのはうれしい。こういうのはブログはもちろん、他の文芸ではなかなかない文化だと思う。

 一方で、私が短歌からすこし離れたいと思ったのも、歌会を含む短歌界隈の交流についてのもやもやする気持ちが原因だ。普段まったく短歌とかかわりのない人には想像がつかないかもしれないけれど、Twitterなどインターネット上で活動する歌人はそこそこいる。そして、そういった人たちがネット上に短歌のコミュニティをつくっている。Twitter上ではそういった短歌アカウントの間で短歌に関するあれこれについての意見が交わされることもあるのだが、そういった意見の応酬(議論とは言いたくない)がかなり排他的な色を帯びる場面を幾度も見かけてきた。単にやかましいだけなら耳をふさげばいいのだが、自分自身も作歌に関わる身として自分が批判されているように感じることもあり、なんだか嫌になって短歌そのものをやめてしまいたくなった。それで中断していた。

 Twitterをふくめ、インターネット上にはいろんな人がいる。一口に「短歌関連アカウント」といっても、そのなかみは様々だ。歌歴も違えば、好きな歌人や理想の短歌も違う。心地よい短歌との付き合い方も人それぞれ。そういったいろいろなスタンスの人たちが、「短歌」という一つの要でつながっている。そういったスタンスの違いを理解せずに、自分の基準を相手に押し付けようとすれば互いに不幸になるだろう。

 ネット上のあちこちで目も当てられないような「議論」が交わされること自体はめずらしいことじゃないし、それは短歌に限らない話だと思う。けれど、短歌に関してはインターネットという場だけでなく、歌会の場面においても同じことが起こりうる。ある意味では人間関係が濃厚な文芸なのだと思う。歌会はほかの参加者が出してきた歌に対して公式に意見を表明することができる場ではあるけれど、自分基準に当てはまらないものをすべて「悪い」と切り捨ててしまうようなやり方をする人がいるのであればそれはやっぱり気分のいいものじゃない。歌会の目的(交流がメインなのか、厳しく批評をしたいのか)をはっきりさせる、歌歴や目的により参加者を制限するなど歌会自体を変えていく方法もあるとは思うのだけれど、根本的な部分で参加者が意識しなければならない点も多いんじゃないだろうか。

 Twitterを通じて短歌仲間とつながれること、歌会も、それ自体悪いものではなくて、そこから生まれるいいこともたくさんあると思う。だからこそそういった場がもっと寛容で、多くの人にとって居心地のいい場所になればいいと思う。なんだかぼんやりとしたことを言うようだけれど、ここだって短歌過激派にみつかればどんな攻撃を受けるかわからない。Twitter上の短歌コミュニティに限らず、自分と違った意見を許容しない排他的な姿勢を見かけることは日常で、私はときどき悲しい気分になる。