モリノスノザジ

 エッセイを書いています

日記は文で書くべきか

 日記はすべからく文章で書くべきものなのか、とおもって、何日間か絵日記を描いてみた。昨年の8月ころのことだ。小学校の夏休みに書かされたような「絵+文」ではなくて、「絵」のみの完全なる絵日記。文章じゃなく絵日記を描くことでどんな効果があるとか、そういった仮説のようなものも特段あるわけではなくなんとなくただやってみたのだけれど、すぐにいくつかの発見があった。

 第一に、絵日記には通常の日記に書かれるはずだった内容がそっくりそのまま描かれるわけではないこと。絵日記は時間の経過を表現するのに向いていない。普段日記を書くとき、私はまず一日の行動を順番に書き出すところから始める。なんでもない日でも日記を綴るためのマイルールだ。けれど、一枚絵の絵日記にはそのすべてを描きいれることができない。だから自然と絵日記は、文章によって書かれる日記よりも盛り込まれる情報が少なくなってしまう。

 第二に、絵日記には通常の日記には書かれることのない内容が描かれる場合があること。最初はとても不思議だった。文章によって書かれた日記から絵日記に振り替えたことで多くの出来事が日記からこぼれおちてしまった代わりに、普段なら決して日記には残さないような場面を日記として残していたのだ。

 たとえば、夕食の付け合わせのミニトマトがきらきらしていたこと。部屋に翅のある虫が迷い込んできたのをつぶしてしまい、虫を包んだティッシュごとゴミ袋にいれておいたら夜中にごそごそ動いていて怖かったこと。市場でピンクや紫のじゃがいもを買ってきて家で揚げたこと。どれも普段だったら日記に書くことはなく、後で「こんなことがあった」となつかしく振り返ることもないだろう。けれど、絵日記にはそうした出来事がひとつひとつ、保存されていた。そうして絵に残された出来事たちは、どういうわけだかあれから4カ月以上経った今でもはっきりと思い出すことができる。まるで、絵を描くことによって記憶が脳みその皺に刻まれたみたいだ。文章でいくら詳細な日記を残してもたいていのことは忘れてしまうのに、絵日記に描いたことは覚えているなんてどうしてだろう。

 文章で書かれた日記と絵日記とで、そこに残される内容が異なること。それはある意味当たり前でもある。文は絵ではないし、絵は文ではないから。文章によって記述される内容のすべてを絵は表現できない。例えば、朝起きてから夜寝るまでの一連の出来事すべてだとか、そうした出来事について私が考えたこと。出会った人と会話した内容、未来のこと。表現できない多くの出来事のかわりに、絵日記は絵で表現する。「一日」からことばを排した先に残るもの、それはもしかしたら、ことばによってその日一日のもの・ことを把握しようとするいつものやりかたでは見過ごしてしまっていたものなのかもしれない。

 そうこうしているうちに地震が起きたりして、絵日記はやめてしまったのだけれど、ときどきだったらまたやってみてもいいかもしれない。きょうにくっついたことばたちをひとつひとつはがしていったら、いったい何がみえるようになるだろう?