ヘンテコポエムにならないために
『「何者か」になれると思っていた。35歳女性が考える「29歳問題」(telling,) - Yahoo!ニュース』という記事を読んだ。もともとは、ミレニアル世代の女性をターゲットとしたWEBメディア「telling,(テリング)」に掲載されたものらしい。テリングの特集ページ「♯29歳問題」には、30代を目前に控えた女性たちが抱える問題や焦り、そしてそれらをどう乗り越えるかといった内容のコラムが多数掲載されている。
記事の筆者は35歳の女性。なにか特別な「何者か」になれるという漠然とした思いを幼い頃から抱いてきたが、20代を迎えて自分は何者でもないと考えるようになる。周りと自分とを比較しては自分を責めるばかりの20代であったが、恋人に振られた失意のなか、がむしゃらに仕事に取り組むことで「世の中は、私の力なんかじゃ変えられない」と諦めを知る。35歳になった今では「他者から評価される何者か」になるのではなく、「自分が納得できる何者か」になれればよいと考えている、という。
自分がなにか特別な「何者か」になれるという感覚はとても共感できる。記事のコメントを見ているとそうした共感のコメントが寄せられるなかで、筆者を嘲笑するようなコメントもちらほら見られた。人生に関する見方は人それぞれなのでそれは仕方のないことなのだが、気になったのは書かれた文章に関するコメントだ。「35歳にしては稚拙」だとか「独りよがりのヘンテコポエム」、「なにも中身がない」とまで言うものもあった。またしても私にとって他人事とは思えない、チクリと刺さるコメントである。
幸いながら、私がはてなブログで記事を書いていてこの種のコメントを頂戴したことはいままでない。それどころか、気が付けば玄関先に星がおいてあるのをみつけることもある。わが家を訪ねてきてくれた人が、おみやげにこっそりおいていってくれたものだ。もしかするとこれも「つまらん記事を書きやがって!頭に星でもつければちったあ役に立つだろうがよ!」という感じで投げつけられたものかもしれないが、その気持ちは私に伝わっていないので、今のところありがたく頂戴している。はてなブログのみなさんやさしい。
しかし、では何が中身のある文章なのか、という問題は、一介のブログ書きとして深刻に考えてみたい問題である。私がこの文章を書いたとして、このような指摘を受けてどうリライトするだろうか。断っておくけれど、私自身はこの記事を読んで、中身がないとか稚拙だとかそんなことは思わなかった。だから、これから書くことは「強いて直すとしたら」というものであるし、私自身ができていて筆者にできていないことを「指導」するのでもない。この記事を題材に考えたいのは、あくまでも私自身の文章のことである。
私はこの記事を読んで中身がないとは思わなかった、とさっき書いた。けれど正直なところ、冒頭で記事内容を要約するときにすこしばかり悩んだのも事実だ。文章の構造に、すっと頭に入ってきにくい何かがあるのだ。
私が引っかかったのは、「20代の自分は何者でもなかった」という部分と、「自分だけがなにもできない」という部分の飛躍。20代の10年は長い。きっと筆者自身いろいろと悩んで、そうした悩みはとても身近で見慣れたものだったのだろうし、なにより自分自身の心のことなのだ。あれこれ説明しなくたってよくわかる。けれど、他人が読むとここに飛躍を感じてしまう。「自分は何者でもない」という気持ちと「自分だけが何もできない」という気持ちは似ているようで少し違う。前者にはない「他者」が後者に現れているのだ。
ここだけではなく、恋人に振られたことをきっかけに諦めを知るところなど、概して心情が変化する部分の説明が薄い。自分に対する諦めを知って、29歳(20代)問題から解放されるところ。このコラムのハイライトのはずなのに、あまり活きているような感じがしなくてもったいない。私にとって私の心は私のものでも、他人にとっては未知のものなのだ。心の動きは克明に書くこと、これが一点目の教訓だ。
二点目に具体性。筆者は31歳のとき「彼氏にこっぴどい振られ方」をし、それが転機になったと語る。けれど、その「こっぴどさ」がどんなものかわからない。「こっぴどさ」がわからないので、そのあとの落ち込み具合もよくわからない。転機になった出来事はできるだけ詳細に書くほうが効果的だと思うのだが、「がむしゃらに藻掻く日々の中で、上司がフィードバックをくれ、お客さんから反応が返ってくる。そこで気づいたのは「こんだけ必死にやっても、失敗するし、いい方向に進んでもほんのちょっとだけなんだ!」ということ。」という“気づき”に具体性が欠けていて、全体にふわっとした話になってしまっている。失恋という悲しい思い出や仕事のこと、詳細に書きづらい部分ではあるが、それをしっかり描くことで説得力が増すと思う。
三点目。そうはいいながらも、「中身がない文章」なんて言うやつはほっておけ。
私の嫌な言葉に「世間を知らない」がある。「教師は世間知らず」とか「結婚もしたことがない世間知らず」とかそういう言葉をあちこちで聞く。私自身何度も言われては律儀に落ち込んできたが、「会社を経営したことがない世間知らず」と言われてはっとした。社会で生きている大人の何割に会社を経営したことがあるというんだ。結局「世間知らず」という言葉は、「私にとって都合のいいことをいってくれない」というのと同義なのだ。
中身がある文章、といったときに、読者に何か考えさせるものがあるとか、役に立つとか、知識を得られるとか、そういった考え方もあると思う。一点目・二点目として書いてきたような表面に現れる文章の問題ではなく、内容に関する問題だ。しかし、こういったことはどこまでも受け取る側にとっての問題であって、その人にとって利益がないということと、その文章がまるっきり無価値だということとは別物だと思う。「中身がない文章」ということは「世間知らず」と同じで「私にとって利益がない」ということであって、いちいちそんなことを言ってくるやつを相手にする必要はない。さらに言うと、利益があるかないかで物事の価値を図るようなやつは、根本的に相手にする必要がない。
今回の記事を書くにあたって、ためしに参照した記事をリライトしてみた。リライトしたことで筆者の真意と異なった文章になってしまった可能性があるし、決して私が書いた文章のほうが優れているとも思わない。けれど、他人が書いた文章を自分なりに書き直すというのはそれなりに骨が折れることでもあり、上で書いてきたこと以上に気づきがたくさんあった。「独りよがりのヘンテコポエム」にならないよう、少しずつでもでもよくしていきたいものです。筆者の言うように、できる範囲で。