モリノスノザジ

 エッセイを書いています

クリスマスおめでとう

 街で髪を切って、新しいパンツを2枚買った。母は年末が近づくと子どもたちに新しいパジャマと靴下、上下の下着を買い与え、大みそかの夜、私たちは全身あたらしいもの尽くしで眠りについた。「元旦には新品を下ろす」というその習慣が一般的なものなのか、わが家に特有のものだったのかわからないまま大人になって私は、パンツを買ったのは偶然だけれども、いや偶然なのかわからないけれども、めずらしく雪のないクリスマス・イブの街にかろうじて年末を感じている。

 美容院はジャズ風にアレンジされたクリスマスソングを小さく流しているだけで、クリスマスツリーもなければリースもなく、もちろん店員がサンタの格好をしているなんてこともなかった。頭を乾かされながら、どこかのゲームの主人公みたいにイケメンのお兄さんとオランダ絵画に描かれていそうにゆったりとしたお姉さんとの間で道東のフランクフルトの話などしたのがたのしかった。思えば同年代とこんなふうに話すのはとても久しぶりだ。

 話の内容自体はその美容師さんの持ちネタでどのお客さんとも同じ話をしているのかもしれないけれど、でもそれは別にどうでもいいことだ。その時、その場所でこの三人でその話をしたこと。私たちの誰も特別じゃなくたって、その組み合わせは後にも先にもここだけにしかなくて、たった一つの「個別」な経験だ。話の内容はほんとうにどうでもいいことだし、きっと私はこんなことわざわざ日記に書いて残したりはしないだろう。明日になったら忘れてしまうのだろうけど、なんだかこういう、どうでもいいけれど「個別」な経験の積み重ねが生活そのものなのだと思うし、特別とはそういった個別のことなのだと思う。

 家に帰る途中、スーパーでチキンを買って、家で食べたら胸やけがした。なんだか今年はそこらじゅうに『ジングルベル』があふれているということもなく、なんとなく糖度控えめな感じであるよ。でもきっと、これだけたくさんの人がいてそのそれぞれにそれぞれのクリスマスがあって、それはドラマや映画みたいによくできたものでなくても、その人の生活の一部を占める「個別」で「特別」な経験なのだろう。寝ているお子さんの枕元にクリスマスプレゼントを仕掛けるおとうさん・おかあさんの健闘を祈って。今夜デートの人はあんまり浮かれないように。イエス・キリストの生誕をお祝いする人は、クリスマスおめでとう。

 クリスマスおめでとう。