モリノスノザジ

 エッセイを書いています

スマートじゃないほう

 ふと昔の携帯電話のことを思い出して、ああ、昔の携帯電話はよかったな、と思う。

 まず、一台一台に個性があった。スマートフォンを持つまでに3台の携帯電話を持ったけれど、捨ててから10年以上経つ今でもはっきりと覚えている。シルバーの安っぽい機体にこれまた安っぽい黄色のプラスチックがはまっているもの。白い楕円形でコンパクトのような形をしているもの。戦隊ものの変身に使えそうにごつくって、キー部分がスライド式になっているもの。いま思えばどれもおもちゃのような造形なのだが、あのころは機種変更が楽しみだったし、理由もなく携帯コーナーをうろついたりしていた。

 好きな曲を着メロにするのも楽しかった。たしか無料でダウンロードできたオレンジレンジのことをよくおぼえてる。授業中、だれかの携帯電話から流行りのラブソングが流れてきて、クラスじゅうで爆笑したこともあった。電池カバーの上ですり切れたプリクラシールとか、あまり話したことがない友達のころころ変わるメールアドレスとか、あのころの携帯電話は楽しいことがいっぱいあったなと思う。

 ひるがえって今使っている携帯電話はというと、四角く真っ黒なスマートフォンに壁紙は初期設定のまま。我が家に来てからは終始マナーモードで、アラーム以外の音を鳴らしたことはない。なんだか携帯電話はわくわくする存在じゃなく、ただのツールになってしまったな、という感覚がある。

 ただ、これはかつての携帯電話、いわゆるガラケーを淘汰して生き残った携帯電話の姿なのだろう。ガラケーが機種ごとに別々のパーツを使用していたとすれば、部品や仕様の規格化を進めることでより安価な製品をつくることができる。狭いニーズに特化した独自の機能を設けるよりも、より汎用性のあるツールのみを搭載することでターゲットが広がる。こうしたあらゆる面での「スマート化」を進めることで、スマートフォンは生き残ってきたのだ。

 もちろん、単に自分が大人になっただけというのもある。大人っていうものはたぶん、携帯電話で遊んだりはしないものだ。今の若い子は若い子なりに私のしないやり方でスマホを楽しみ、10年後にはTick tockやSNOWのことを思い出して懐かしく思ったりするのだろう。たぶん。

 スマートかスマートじゃないかで言えば私はあきらかにスマートじゃないほうで、買ってきた牛乳を開けないまま賞味期限を切らしてしまったりする。3人以上の会話にはうまく混ざれないし、ときどき出勤簿にハンコを押すのを忘れている。夜ねむれなくなるので、14時以降はコーヒーを飲めない。ずっと友達になりたいと思っていた人と話す機会が唐突にできると、舞い上がるか黙ってしまう。張り切って買ったおみやげで相手を困らせてしまう。久しぶりに会う友達はおしゃれなバーやレストランに案内してくれたりするのに、私にはできない。周りがみんな洗練された大人になっていくのに、私だけが取り残された、ガラパゴス人間のようだ。そして、ガラケーに個性があったように、私はガラパゴス人間として個性があるのかというと、そういうわけでもない。

 でも、スマートになれないガラパゴスな私は、それでもガラパゴスなりに自分の個性を磨いていきたい。

 とか、それでも私はこんな私のことが好きですとか、私がガラケーを懐かしむみたいに、スマートじゃない私のことをだれかがときどき思い出してくれたらうれしい。とか、そうやってきれいにまとまる方法はたくさんあるのかもしれないけれど、それはほんとうではないと思う。

 だいたい、私からみてスマートにみえる人だって、心のなかでは同じように悩んでいるのかもしれない。それを外側からみることはできないけれど、だからこそその人は「スマート」なのだ。それに、私だけが特別で、私だけがくるしいなんてことがあるものだろうか。本当はみんながみんなガラパゴスで、それぞれがそれぞれの島にいて、他の島とは交信できずにいるんじゃないかという気がする。ことばを伝え合っても、肌と肌でふれあっても、誰ともほんとうにふれあうことはできない。

 世間はクリスマスやお正月を控えた楽しい時期をむかえている。恋人や友人と、家族と、楽しい時間を過ごすときである。

 ああ、このことばはどこかにとどいているんでしょうか?