モリノスノザジ

 エッセイを書いています

和服の国の人だけど

 最近、OPECのことが気になっている。ニュース番組でOPECと聞こえたら洗い物の手を止めてテレビに見入ってしまうし、新聞を開けばOPECの記事をさがしてしまう。こう言うとなんだか恋のようでもある。

 OPECといえば、サウジアラビアなど10の石油産油国によって構成される組織を言う。石油生産量を増やしたり減らしたりすることで原油価格、ひいては世界中の経済に影響を及ぼすことができるため、その動向に日々目を見張っている人も(たぶん)いるのだろう。私は経済とか貿易とかむずかしいことはよくわからないし、自動車を運転するわけでもない。だからその決定がどれくらい重要なものなのかはよくわからないけど、灯油価格に関係があるようなので冬場はなんとなく意識しないでもないし、それはさておき中東の民族衣装がなんだかものすごくよい。真剣なビジネスの話をしているからなのだろうけれど、ゆったりと波打つ白いベールの下になにやらむずかしげな表情を浮かべて首を傾けている様子など、まるでギリシャの彫刻みたいである。そしてそうした民族衣装を、中東以外の国々が参加する国際会議のような場でも見られること、それが何より「うらやましい」。私は「和服の国の人だから」。

 ノーベル生理学・医学賞を受賞した本庶佑教授は、10日、羽織袴姿でノーベル賞の授賞式に出席した。授賞式前に行われたインタビューでは「なぜ和服を?」という質問が投げかけられ、その様子がニュースでも紹介された。しかし、なぜ和服を着るのに理由が必要なのだろう。ノーベル賞の授賞式といった場では燕尾服を着ることが通例であるから、ではない。「和服の国」日本にあっても平時から和服を着ることは「ふつう」ではなくて、どうやら和服を着ることそれ自体に理由が必要なようなのだ。

 5年前まで休日は着物で過ごしていたのを、やめてしまったのはなぜだろう。着物を着て外に出かけると、洋服のときと比べて圧倒的にたくさんの人に声をかけられて、その9割が「なぜ着物?」だった。周りに着物を着る人の多かった時期はそれでも気にせず着ていたが、引っ越してからはだんだんと着なくなり、かさばる着物は引っ越しするごとに一枚、また一枚と処分してしまい、とうとう手元には着付け道具しか残っていない。「なぜ着物?」と聞かれれば、逆になぜ理由がいるのかと問いたくなりはするけれど、実際には理由がなければ着られない、というのはもっともだ。

 まず着付けが難しい。慣れないうちは時間がかかるので、平日着物を着てから出勤するなんて生活が可能かというとまず無理だろう。それに着物は高価で、洗濯にもお金がかかる。ポリエステルでできた安価で自宅で洗濯可能な着物もあることはあるのだが、若干の安っぽさを感じるのも否めない。これは着物を着る人が少ないから仕方がないことなのだけれど、比較的安価な着物にバリエーションが少ないのも着る人を選ぶ要因だ。シャツ、ニット、パンツ、スカート、コート、そのそれぞれに目のくらむほどたくさんの種類があるなかから自由に選んで組み合わせ、自らの好みに合った服装をつくりあげることの洋服と比べれば、既製品は本当にバリエーションが少ない。トレンドに合わせてはやりの物を買い、数回来たらメルカリで売るような現代の洋服の楽しみ方と、世代を超えて一枚を大事に着続ける着物とでは、そもそもの「消費感」がずれすぎてしまっている、というのもある。個人的にはデニム地の羽織など、洋服と組み合わせて楽しむところから和服回帰が起こったらいいなと思うのだけれど、そういう私自身がやらないのだからしょうもない(デニム着物もなかなか高いのだ)。

 そんなわけで、「和服の国」に住みながら和服を着ない私には、当たり前のように自国の民族衣装を身につける中東の彼らがとてもまぶしく見える。いや、当たり前の「ように」じゃない。本当はそんなのまぎれもなく当たり前なのだ。それなのに、国際会議ではスーツを、ノーベル賞授賞式では燕尾服を着るほうが「標準」となにか素直に考えて、着物を着たいといいながらその努力をしない私はなんだかもう本当にどうしようもなく、これ以上何も言う権利はないと思う。

 なんだか生まれ変わるしかない気分だ。