「ふーん」じゃないならなんなんだ
東京へは年に何回か行く。というか、年に何回か上野に行く。上野に行くとたいてい上野公園を通る。上野公園にはいろいろな種類の人がいる。路上にパフォーマーがいてそれを行きずりのカップルが見ていたりとか、普段の生活では互いにまったく関わりのなさそうな人たちが休日の公園で関わったり関わらなかったりしていて、そういうのは普段見かけない光景だな、と思う。
上野公園は散歩をする人やパンダを見る人、佐渡の地酒を飲むために行列をつくる人、バナナのたたき売りを見る人、ギターを弾く人とそれを遠巻きに眺める人などで混みあっていて、私はそこで絵を見る人になった。上野の森美術館でフェルメールを、東京都美術館でムンクを、東京国立博物館でデュシャンを見た。上野の森美術館ではチケットもぎりのお姉さんが『真珠の耳飾りの少女』風のターバンや『青衣の女』風の青いチュニックを身に着けている。受付を済ませて入った最初の部屋では『牛乳を注ぐ女』の背景に描かれているデルフト焼きのタイルが再現されていた。他の二つの美術館とは違って音声ガイドを無料で貸し出していて、美術に興味のある人も、知識があまりない人でも、いろんな人が楽しめる工夫をしているのだなと思った。
ときどき上野へ行くのは地方で見られない展覧会を見に行くためだけれど、正直言って私もあんまり美術のことはわからない。実際に絵を見てみても「ふーん」としか思わず、しかし「ふーん」は「ふーん」なりに右より左の絵のほうが好きだな、みたいな感覚があり、その理由を考えながら絵を見比べるのは少し楽しいのかもしれない。
たぶん生まれたときから「芸術がわかる人」なんていなくって、わかるようになるためにはそれなりの訓練を積まなければならないのだと思うのだけれど、こうやって「ふーん」と思うために飛行機代を払い、疲弊するのかと思うと、一方で、なんだかなんだか、いいのか私、これだけお金も時間もかかって疲れ果てて、そんな感想しか持てないのかよという気分にもなってくる。通販であらゆる種類の本が手に入り、手元のスマホでは無料でゲームができ、インターネットでほしい情報・見たいものをいつでも手に入れられる今の時代にあって、わざわざ東京まで絵を見に行く意味というのはなんなのだろう。「写真では見たことがあるけれど、実際に見てみると迫力が違った」とか「やっぱり本物はパワーがある」なんて思い込んでおけばいいのだが、そう思わないのだから仕方がない。経験を重ねればいつか『美しい』がわかるはず、とは思うものの、経験を重ねて溜まっていくのはまったく本質的じゃなくどうでもいい知識ばかりで、美術作品を見る目が養われているわけではない。
だけど、じゃあその「美術作品を見る目」っていったいなんなんだって言われると、それもよくわからない。「ふーん」じゃないならなんなんだ。音声ガイドではその作品が描かれた経緯や時代の背景、そこで用いられている技術などが紹介される。同じ時代に活躍した音楽家の音楽をBGMとして流してみたりだとか。美術鑑賞の方法の一つとしてそうした「知識」を持つことを否定はしないけれど、知識が増えても目に見える作品はちっともかわらない。音声ガイドを聞いて「なるほど遠近法がよくできてる」なんてつぶやきながら絵を見ている人もいるけれど、遠近法とかなんとか透視法だとか、三次元を二次元で表現するための技術が優れていることが美しいことの条件なんだろうか?もしそうなんだったら、そうした技術に関する経験が蓄積され成熟する新しい時代の作品ほど美しいはずだし、なんなら写真のほうが優れているということになるだろう。だけど私たちはいまだに古い芸術作品をありがたがるし、絵画が写真によって駆逐されることはないのだ。なんだか本当に、『美しい』ってよくわからないもんだな、と思う。
『美しい』がわからない私にひとつできるのは、「どうせ見たってわからないのに、東京まで見に行くのは手間だしお金もかかるのに、なんでそれでも見に行くんだ?」と問いながらそれを続けることなのかもしれない。わかるから見に行くんじゃなくて、わからないから見に行くんだ。そうして、いつか自分が「いや、芸術作品というのは時間やお金を費やす必要のないものだ」という答えに行きついたのであればそれでもかまわない。それだって、時間やお金をかけて作品を見に行くという経験がなければ得られない価値観なのだと思う。過去の自分のしてきたことが間違っていたなんて思いたくないし、それ以上に「わかりたい」のが本音ではあるけれど。