モリノスノザジ

 エッセイを書いています

私はいつ準備ができるのか(3)

 森(2)の提案はとてもいいと思う!「準備ができていない」ってつかみどころがなくてどうやって考えたらいいのかわからなかったけど、地震に置き換えるとわかりやすくなった。だから、このまま続きを考えてみたいと思う。

 まずは①の「やり方を知らない」から。これはつまり、「何を準備すればいいのか知らない」っていうことだろうか。

 地震のことに関していうと、今の私なら、この問いに対する答えをある程度持っている。例えば、非常用の食料や避難時に役に立つ道具を備えておくこと。緊急時の連絡方法を事前に家族と話しておくのも大事かもしれない。普段から避難訓練をしておけば、いざというときにも慌てずに避難することができる。

 こうやって答えの側から考えてみると、一口に「準備」っていってもいくつかの種類があるみたいに思える。試しにいくつかに分類してみたら、少しでも考える助けにならないだろうか?たとえば、「物」の準備と「システム」の準備、そして「人」の準備。パソコンで何かをしようとするときに、物(ディスプレイやキーボード)とシステム(ソフトウェア)、そして操作する人が必要なのと同じように、地震が起こったときには物資や機材とそれを動かすための体制、そして何よりもそれを使って実際に対応に当たる人が必要だ。

 こうやって「準備」を便宜的にみっつに分けてみると、何を準備すればいいのか、やみくもに考えるよりはいいような気がする。

 けれどそれにしたって、「物」にしても「システム」にしても「人」にしても、どれだけ準備すればいいのかっていうのは確かに問題だよね。⑧だ。「現実」はいつも教科書どおりなわけじゃないから、いくら準備をしてもし足りない。だけど、あらゆる可能性を考慮してすべてを準備するというのは不可能だ。地震に備えることだけに専念して生きてるのならできるのかもしれないけど、私はそのほかにも仕事をしたり遊んだりしながら生きているわけで、そういった生活とも両立させながら準備をしなければならない。

 そう考えると、どんな準備も万端ではありえない以上、何度も「現実」を繰り返し経験していくなかで(あるいは、過去の経験から学んで)、状況に応じて判断する力を養って、準備不足な部分は補っていくほかないのかもしれない。地震に関して言うと、何度も繰り返し経験して学ぶ、なんて避けられるのであれば避けたいものだけど。