モリノスノザジ

 エッセイを書いています

すごくふつう

 毎日通う職場のビルがすごいので聞いてほしい。ビルは、すごい。まず、毎日あの形を保っている。おとといから昨日にかけては、久しぶりの、それなりに雨量の多い雨模様だった。それでもビルは、濡れてへたっていることもないし、湿気で膨張することもない。冬になって雪が降っても、この辺りにしては気の狂ったような高温にさらされても、ビルは元気だ。理不尽に罵倒されても、陰口を言われても堂々としている。

 

 もしも私がビルだったら、住みにくいと思う。多分。まずさ、雨に降られたらへこむもんね。傘では防げないような角度で降る雨にスーツの裾を濡らされたり、綿毛を吹いてばらばらにしたような霧雨に眼鏡を濡らされるのは、好きじゃない。いくら雨が好きだったとしてもだ。がんばって姿勢よく立っていても、横からわき腹を殴られでもしたら、痛くて縮こまってしまう。直接危害を与えられなくったって、こころないことばを投げかけてやればすぐふてくされて布団にこもる。なんてやつだ。勤務先のビルがこんなやつでなくて、本当に安心している。

 

 殴られたり蹴られたりに弱いのは当然として、最近の私はさらにナイーブで困る。Yahoo!ニュースやTwitterをひらけば毎日いろいろな怒りが新着マークをつけて渦巻いていて、そういう、自分とは関係のないところで表明される怒りに対してひどくナーバスになっているように感じる。それに、焦りや腹立たしさもある。それはどちらかと言うと私自身が起点のように思われるのだが、どういう種類の焦りなのか、何に対する苛立ちなのかわからない。

 そうした内面のざわめきを他人にぶつけることがないとしても、なんだか居心地の悪い気持ち。ビルがそういう気持ちでいたら、きっとビルのなかにいる人も居心地悪く感じるだろう。同じように、私がそういう気持ちでいると、私もなんだかすっきりしないので困る。

 

 嵐のなかにあったオリンピックは、開会式/閉会式と、卓球男子団体の準決勝、それに三位決定戦を観た。スポーツが海王星なら、私は水星。それくらい運動と縁遠いところにいる私が卓球を観ようと思ったのは本当にたまたま。職場の同僚がその日、やけに卓球を楽しみにしていたからだ。昼間、仕事に追われながらも「卓球男子、今日?何時⁉」と気にしている。卓球とはそんなに見ごたえのあるものなのか、と思いつつ帰宅すると、噂の試合がちょうどテレビで始まるところだった。

 

 「スポーツの力で感動を」なんて中身のない言葉が、何度も繰り返されてきた。そしてそれをこれまで冷ややかな目で流してきた私であるが、くやしいことに、卓球の試合を観るのはそれなりに楽しく、人並みに感動までしてしまった。

 刻一刻と状況が変わっていくなか、状況に合わせて戦略を変えて戦っていくことの面白さ。相手の裏をかいてようやくぶんどった1ポイントの重み。11ポイント先取で1ゲームを取ることとなる卓球の試合では、ひとつふたつポイントが動くだけでもがらりと雰囲気が変わる。その緊張感。

 

 男子団体がドイツと戦った準決勝、その結果は負け。緊張感のあるやり取りが続く試合のなか、相手に一方的にリードを取られる展開が続く場面もあった。それでも彼らはまっすぐに卓球台に向かう。まだゲームは終わっていない。そういう状況にあってゲームを放棄しないということはある意味当然なのだけれど、そのことにうっかり感動してしまった。ミスしても、相手に得点されても、そこはまだ夢の途中。仕事でミスしたり、うまくいかないことがあったときに落ち込む私は、いったい何に落ち込んでいたんだろう?「スポーツの力で感動を」なんてあちこちでペラペラ言われるくらいだから、感想としてはきっとすごく陳腐なものなんだろう。私はすごく、ふつうだ。

 

 そんなふうに考えていると、ここのところ感じていた腹立たしい感じの原因にも、なんとなく思い当たるものがあった。前もって言っておくと、これはすごくばかばかしい感情だ。ずっと前、もうすごくずっと前。このブログのことを知った知り合いが、声をかけてくれたことがあった。相手がどういうつもりで言った言葉だったのかはわからないけれど、少しだけ嫌な気持ちになった。こういうふうに文章を書いていることを、その出来栄えを揶揄されているように感じた。

 文章がへたくそでおもしろくもないのは、私の責任だ。だから、怒らなかった。それからしばらく経って、最近、その知り合いがSNSでエッセイを発表しているのを見かけた。私にはあんなことを言っておいて。そう思った。他人に認められる文章が私には書けないことの悔しさ、嫉妬で胸がいっぱいになった。この感情に気がついたとき、私は陳腐なまでに人間で、それも、弱い人間なんだと、改めて思った。

 

 このところ、雨が多すぎる。いや、北海道に雨はほとんど降っていないのだけれど。嫌な天気みたいな空気をたくさん吸ってしまう。私は建物じゃなくて人間なので、季節が変わるだけでだるくなったり眠くなったりするし、世の中が嫌な言葉であふれていると影響されてしまう。

 でも、ま、そうだな。建物みたいに頑丈でありたいと思うことのほうが、どちらかと言えば滑稽である。悔しくなったり感動したりしながら、だらだら漫画を読んだり、ねむくなってうっかり昼寝をしてしまったりして過ごしている。すごくふつうな私の、すごく、ふつうな日。