モリノスノザジ

 エッセイを書いています

真夏の夜の

 全体がゆるくゆるく傾斜掛かったようなその街の朝のなかを、一台の車が走り出ていくのを見た。朝、私はコンクリートの高台の上を歩いていた。そこから一段低いところに道があり、車はその道を飛ぶように走っていく。車内にちらっとだけ、隣のクラスの担任の顔が見えた。どうも、妙な話だ。

 

 とんとんと階段を下って、車が走っていったのと同じ方角へ歩きはじめる。車を追っているというわけでもなく。

 それにしたって、なんて中途半端な街並みだろう。校外学習と言えば、もっと自然のあふれるところを宿泊場所に選ぶものではないのか。

 ほとんど気がつかないくらいの坂道を歩いていけば、幅広で人気のない道路を縁取るように、建物が生えている。朝だからか、どこも入り口を閉ざしていて、色がない。看板もない。ここはたくさんの建物があっても、都会ではないのだ。どういうつもりでこんな場所に私たちを連れてこようと考えたのか、先生たちの考えることはまったくよくわからない。

 

 集合場所に指定されているホテルが近くなると、他の生徒たちの姿がちらほらと目に入るようになった。広いのに信号のない交差点に立つと、対角の位置にふたりの生徒が立っているのが見える。スマートフォンの画面をふたりで覗き込んで、なにやら話し合っている。

 そういえば、私も携帯を持っていたんだ。そう思うと、ポケットにはやはりスマートフォンがあって、私はスマートフォンの画面を明るくする。LINEに、母から何通もメッセージが来ていた。ふたたび周りを見渡せば、生徒たちが、不安と好奇心の入り混じったような顔で足早にホテルの方向へ向かってゆくのが見える。やっぱり、なにかあったんだ。

 

 私たちはそのホテルに集合して、そこからバスに乗り込む予定だった。帰りのバスにだ。隣のクラスの担任もまた、ここからバスに乗る予定だった。何事もなければ。それが、バスの出発を数十分後に控えたこの時間にわざわざ別乗りで帰るとは。いったいなにがあったのだろう。

 

 集合場所をぶらぶらしているうちに友人と出会って、謎は半分とけた。やつの言うところによると、隣のクラスの女子生徒が、男子生徒と一緒に「ジョウシ」を企てたというのだと言う。じょうし、なんて言葉を口に出すのははじめてだ。つまるところ、その女子生徒が、恋愛関係にある男子生徒と一緒に自殺を試みた、ということだろう。あたりはもっぱらその事件の話題でもちきりなのに、それ以上のことは誰も知らないようだ。その試みが成功したのか失敗したのか、彼女たちはどこにいるのか。そして、その女子生徒というのは誰なのか。

 

 正直なところ、私と友人には心当たりがあった。”彼女”は私たちと同じ吹奏楽部の部員で、隣のクラス。本人は秘密にしているつもりのようだけど、彼女が定期的にリストカットをしていることを、私たちは知っていた。そして、隣のクラスに「ジョウシ」を企てる女の子なんて、彼女のほかには思いつかないことも。案の定彼女は周りを探しても見つからなくて、私たちはそのまんま、どうしたらいいかわからなかった。

 

 ひんやりと、風に額をなでられて目を覚ました。夢だったのだ。集合場所のホテルも、宿泊学習で止まったあの街も、現実には存在しない。彼女―――日ごろからリストカットをしている、危なっかしい彼女―――も、いない。

 夢のなかの感覚では、彼女はその世界に確かに存在していた。たとえあの場所に彼女の姿がなかったとしてもだ。昨日までの学校生活を、一緒に、というほどには仲がよくなかったとしても、同じ世界にちゃんと存在していたのだと思えるくらいに、彼女はそこにいた。そんな彼女ごと、朝は世界を無くしてしまう。

 

 現実で宿泊学習に行ったのは、小5と中2の二回。行先はどちらも「青少年自然の家」みたいな、なんか公共の施設だ。そこは絵にかいたみたいに子どもの教育にいいところだった。夢に見たあの街や、そういう感じのところに行ったことはなかった。

 

 夢のなかだけで何度か通った学校がある。上空から見下ろすと校舎が蹄型になっていて、そのU字の内側を埋めるように教室が連なっていた。U字の左辺と右辺を渡す廊下がなかったので、移動教室の前後はいつもうんざりした。私の教室がある端っこから、反対の端っこにある理科実験室まで行くには、休み時間中廊下をダッシュし続けなければならない。その学校で私は放送委員をしていて、お昼の校内放送をかけるために放送室に行くのは非常に骨が折れた。放送室は、理科実験室の骨格標本をくぐりぬける小さな扉の向こうにあった。

 私が放送委員であるということや、こんなにも頭の悪いつくりをした学校に通っている理由を、夢のなかの私が誰かに解説してもらった覚えはない。けれど夢のなかの私は、その世界のことを当たり前に信じていた。昨日までもずっと、その学校に通い続けていたみたいに。

 

 そういえば、あのヘンテコな学校にもしばらく登校していない。あの世界は、なくなってしまったのだろうか?それとも、夢のなかなのはこっち側だったんだろうか。何年も前から眠って目覚めるたびに戻ってくると思い込んでいた、この世界のほうが。それは、目覚めてみるまでわからない。