モリノスノザジ

 エッセイを書いています

守護霊のスパルタ手洗い塾

「9階のトイレで、いつも手を洗わないひとがいるんです」。

 

 女性社員から突然報告を受けた私は、とりあえず「はあ」とあいまいな返事をかえすことしかできなかった。発言の意図がわからない。女性社員は、私の「はあ」を発言の続きを促す合図と受け止めたらしく、続きを話し始める。
 「いつもいつも、トイレを使った後で手を洗わずに出ていくんです。近くに人がいるって気がついたときは洗うんですけど、チョって手を濡らして鏡の前で髪の毛をチョッチョッって触って洗ったふりしてるだけで、全然真面目に洗ってないんです」

 

 うーん、そういう話か…と思いつつ、私は「あ~…」とか「そういう人いますね~」なんて、気の抜けた相槌を打ったりする。私に告げ口する理由はあいかわらずわからないままだ。ただの雑談だろうか?
「こんな時期なのにほんとうにありえないと思いませんか?こんなにコロナコロナって言われてるのに。トイレになにか貼り紙とかできないんですか?手洗いエチケットみたいな。デパートのトイレとか、ときどき貼ってありますよね。お願いします。」

 

 …というわけで、会社のトイレに手洗い励行ポスター(by厚生労働省)を貼ってまわったりなどしている。業務時間中は人がいるので、居残りである。真面目に手洗いをしないというそいつがどこの誰だか知らないが、その人が用足し後の雑菌まみれの手で生きていようが勝手だ。…とはいえ「こんな時期」である。そいつがどうなろうが知ったこっちゃなくても、他人に損害を与えることになるとすれば放ってはおけない。このポスターを見てその人が気持ちを入れ替えてくれるかどうかはわからないし、なぜそれを私が…という気持ちも…まあ、それは頼まれてしまったので仕方がないのだけれど。
 
 とはいいつつ、私も、この騒ぎがはじまる前まではそれほど手洗いに気を使っていないタイプの人間だっただけに大きい口も叩けない。いまだってここだけの話、5回に4回は「正しい手洗い」ができていない。いちいち腕時計を外すのが面倒で、5回に4回は手首までは洗っていないのだ。こんなこと、あの女性社員に知られたらとは思うのだけれどついつい手首を洗わずに済ませてしまう。「正しい手洗い」を徹底することはそれほどまでに難しいのだ。

 

 そんなこんなで(社会的なプレッシャーもありつつ)手洗いにいそしむある日のこと、ふとした違和感を覚えた。右手の中指。動かすと指のつけ根から第一関節にかけてのあたりがヒクヒク引きつる。痛い。さらには手洗いのとき。せっけん液を手に広げるだけで痛い。アルコール消毒液を手にかけると痛いも痛い。ひどい激痛が右手に広がる。しかし、みたところ手にはなんの外傷もない。恐る恐る中指を動かしてみる。…やっぱり痛い。全然心当たりもないけれど(折れた?)と思いたくもなるような痛みである。人差し指も薬指も無事な状況で中指だけがどうやって折れるというのか、どうにもこうにも説明はつかないのだが、そうは言っても現に痛いのである。

 

 よくよく目を凝らしてみてみると、人差し指と中指の間の水かき部分にごくごくわずかな切れ目がある。クリップの針金で刺したときにできる傷よりももっと小さい、小さな小さな傷である。指と指に挟まれて普段は厳重に守られているはずのこの場所に、どうしてこんな傷がついたのかはわからない。しかしとにかく謎の激痛の原因はこの傷であるらしく、傷に消毒液がついたり、傷が開いた(といっても小さすぎて実際に傷がひらいているのかどうかもわからないのだが)状態で指を動かすと痺れるような痛みが走るようなのである。

 

 謎の激痛にさいなまれるなか、念入りな手洗いの遂行は困難に追い込まれた。「正しい手洗い」のステップに含まれる「指と指の間もしっかり洗いましょう。表から、裏から」というヤツ。それがほんとうに痛いのである。半分拷問である。気がつけば、無意識のうちに右手に痛みを感じない手洗いをマスターしている自分がいた。

 

 …しかし、よく考えてみろ。水やせっけん、消毒液が手の傷に触れると痛い。せっけんを手のすみずみまでいきわたらせて手を洗い、それをすっかり流して、アルコール消毒をすることがウイルス予防にとって重要である。いま、私は手を洗っても右手が痛くない。…これらの事実から考えられる結論は、私のウイルス対策は不十分であるということである。私は手の傷が痛いばかりに、指と指の間の手洗いをおろそかにしていたのだ。

 こ、これは…許されない。人差し指と中指の間にウイルスが生き残ったとして、それが具体的にどういうふうにして私や私の周囲のひとたちの口や鼻へ移るのかはよくわからないが、こんなところに傷ができたくらいである。人差し指と中指の間のこの水かき部分はけっして閉じた世界ではなく、なにかしら外部とつながりのある場所なのだ。…ということは、ここだってきちんとウイルスを洗い流しておかなければならない。どんなに傷が痛むとしても。

 

 水かきにできた傷は結果的に、私がすみずみまで手洗いをできているかどうかを確かめるためのサインになった。傷が痛まないとすれば、それは正しい手洗いができていない証である。傷が痛むとすれば、それは正しい手洗いができている証拠である。そうして痛みに耐えながら手洗いを続け、正しい手洗いが身につくころには水かきの傷は消えていた。

 

 あんなところにどうして傷がついたのか、いまでもわからない。もしかしたら、私を新型コロナウイルスの脅威からどうしても生き延びさせようとした守護霊が、夜のうちにこっそり私の指と指の間を広げて傷をつけていったのかもしれない。

 守護霊がそんなちまちましたこと…と一瞬思ったけれど、考えてみれば、自分が死後誰かの守護霊になったとして、その人を守るために私にいったい何ができるだろうか。守護霊といってもあくまでも私である。飛んでくるトラックをなにかものすごい力で跳ね飛ばしたり、その人の運命を捻じ曲げたりなんてことが…できるわけがない。きっと私についている守護霊も、わたしについているくらいだから、守護霊としての力はそこまででもないはずだ。私を危険から守ろうとするときには、そうやって夜のうちに寝ている私の右手を布団から取り出して水かきにちょっとした切れ目をつけておいたり、私が自転車にぶつかりそうなときには遠くから物音を立てて注意をひいたり、気づかれないように嫌がらせをして顎にニキビができるように仕組んで外出を妨げたり、そういう方法でやっているのだ。そういう方法でしか守れないのだ。

 

 ああ守護霊様、やりかたはちょっとスパルタだったけれど、あなたのおかげで私は「正しい手洗い」を身につけることができました。これからも地道に手洗いを行うことで、この災厄もきっと私は乗り切れることでしょう。あなたのおかげで、私はまたひとつ危機を乗り切れそうです。とてもありがとうございます。感謝です。

 

 …などと感謝していたというのにどういうことだ。今度は右手の側面が痛い。よく見ると、また小さい切り傷がついている。正しい手洗いはマスターしたはずなのに。…もしかすると、今私の人生は大きく変わろうとしていて、それに合わせて右手の手相が大移動しているのだろうか。手相って途中で変わるって言うし、私は左利きだから手相は右手で見るはずだし。右手の側面にある細かい手相(?)が、私の運命に合わせてミリミリと移動していて「あっやっちまった!」って感じで傷ができているのかも…しれ…ない…。

 

 …よくわからないが、とにかく当分の間はまた痛みに耐えながら手洗いをしなければならないらしい。どうしても正しい手洗いが身につかないとお嘆きの方がいれば、洗えていないと思う場所に傷をつけてみるのはいかがだろうか。少々手荒い方法だけど、効果はそれなりである。