モリノスノザジ

 エッセイを書いています

最適と特別

 現状に不満があるってわけじゃないんだけど、なんかときどきこのままでいいのかなって思っちゃうときがあるんだよね。私、他を知らないでしょ?このまま何年も暮らしていって、今とは違う人生っていうのも知らずに生きていくのが、将来的にいいのかなって。いや、別に不満があるってわけじゃないよ。今以上の条件を求めたらそれこそ選択肢がなくなりそうだしさ。だけど、いつかは離れなくちゃいけないときもくるんだと思う。ああいや、この街からね。

 

 これまでに3回の引っ越しを経験して、社会人になってからはずっと同じ街に住んでいる。北海道ではこの街しか知らない。このあたり一帯の地域にゆかりもなければ知り合いもなかった私は、住むところを決めるのにとことん合理的な選び方をした。市内での交通手段。空港へのアクセスのしやすさ。駅近の大型スーパーマーケット。ほどよく街らしく、それでいて緑が見えて鳥の声が聞こえる程度の自然。

 それに加えて、暮らし始めてみれば行きつけの定食屋ができる。私のカルテを持ってる歯医者がある。近くの菓子店でポイントカードをつくる。手ごろな値段で花を売る花屋を見つける。この街には私が望む限りにおいて最適の条件を備えている。

 

 ただ、なんとなく不安になることもある。たとえばいつか私が結婚したとして、そのときは結婚相手と一緒に暮らす家を探さなければならない。そのとき私は、この街しかしらないからと言って、この街で暮らし続けることを求めるのだろうか。あるいは私たちの間に子どもが生まれて、子育てのために生活環境を変えなければならないときがくるかもしれない。そのとき私は、唯一知っているこの街を捨てられるだろうか。自分で選んだこととはいえ、肉親も友達も近くにいないこの場所で、一番長く一緒にいるのはこの「街」なのである。

 これだけ生活に便利な条件がそろっていて、理由もないならほかの街に引っ越す必要はないよなあ、と思う。ましてや、今よりも利便性を下げてまで引っ越しする必要はないよなあ。

 

 がやがやとうるさいラジオの音にはっとして、自分が近所のラーメン屋にいたことを思い出した。壁に飾られた雑誌の切り抜きは陽で黄ばみ、テレビの上に置かれたソフビ人形は埃が溝に溜まってギトギトと光っている。店内では、点けっぱなしのテレビとラジオとが交互に主張をしあっていて、それなのにふしぎとうるさくはない。夫婦が経営するこの店は、昔ながらのラーメン屋、といった感じで、ラーメン屋の無駄に元気のいいちょっと圧迫されるような感じもなく、実に居心地のいい場所である。

 注文していたラーメンが届く。とんこつベースの味噌ラーメン。すこし濁ったスープに太めの縮れ麺が絡みつく。ごま油で炒めた玉ねぎとひき肉からいい匂いがする。普段はそこまでラーメンを食べているわけではないけれど、どういうわけかこの店はときどき来たくなる。

 

 もうこの街は、「便利なだけの街」じゃないんだ。こうやってラーメン好きでもないのに通ってしまうラーメン屋があって、見かければつい中を覗いてしまう花屋があって。この街は私のなかでどんどん特別になっていって、もしかしたら私はそれが怖いのかもしれない。いつかはこの街を離れることになるはずなのに、通勤に便利だとか買い物が楽だとか、そういったほかの街でも代わりになれるような条件とは別の部分でこの街を好きになっていく。

 

 ただ、「好きになるのが怖いから離れる」だなんて間抜けな選択肢を、大人になった私は選ばない。いつかは別れると分かっていても今は一緒にいるんだ。