モリノスノザジ

 エッセイを書いています

斜めの部屋

 明るいトイレはにがてだ。…いや、にがてではないな。きらい、でもない。もったいない、でもない。もちろん許せないなんてこともない。どうしてだかわからないけれど、トイレの明かりは点けない。幼いころからそんな習慣で、朝や夕方のうす暗いトイレも平気だった。私が入っていてもトイレの扉の明かり窓は暗いままなので、トイレが空いていると思ってやってきた家族がよく、鍵のかかった扉をがちゃがちゃした。どうしてそんなことを、と考えてみるけれど、やっぱり明るいトイレがにがてだったわけではないみたいだ。いったいどうしてなのだろう?

 とにかくきっかけはよくわからないけれど、私はトイレの明かりを点けない。大人になった今でも、もちろんトイレは無灯火だ。けれどトイレは明るい。自由気ままな一人暮らしのトイレなのだから、そういうことだってある。言っておくけれど、他人が家にいるときにトイレの扉を閉めるくらいのメンタリティーは持ち合わせている。扉を開けっぱなしにしているのはあくまでも自分一人しか部屋にいないときだけだ。

 開け放した扉の向こうを見ながら便座に腰掛けると、明かりをつけないトイレの良さというものがなんとなくわかるような気もしてくる。南側の窓から差し込んだ日光が差し込んで、トイレのなかの一部分を照らす。時間によって入ってくる明かりの色も、強さも違って、部屋のなかの明かりも均一じゃない。もしかすると、私は蛍光灯の均一な明かりが苦手なのかもしれない。日光のように、あるいはランタンのようにムラのある明かりが好きなのかもしれない。そういえば、お風呂も無灯火が好きだ。

 

 私の住んでいるアパートとその隣のアパートとは、上空から見るとちょうど「L」のかたちになるように並び立っている。真横に並んでいるわけではないぶん「窓を開けたらお隣と目が合った」なんてことはめったにないのだけれど、Lの字の角を挟んで斜めの部屋の様子はたまにそれなりに目に入ってくる。私の部屋の斜めの部屋にはカーテンがかかっていなくって、夜もこうこうと明かりをつけたまま窓を全開にしているものだから、部屋の中のすべてが目に入ってきてとても困った。その部屋の中央には顔のないマネキンが2体あって、家主はそれにハットをかぶせたり小物をひっかけたりしていた。きっとおしゃれな家主だったんだろう。

 けれどそんな斜めの部屋も今は無人だ。やっぱりカーテンがなく、マネキンもそのほかの家具もみんな取り払われた部屋にときどき小さな明かりが灯ることがあって、新しい住人かとどきどきするのだけれど、今のところ誰かが入居する気配はない。

 

 わが家からその部屋の様子が見えるということはきっと、その部屋からもわが家の様子が見えるのだろう。晴れた日はたいていわが家もカーテンを全開にしているからなおさらだ。斜めの部屋から見えるわが家の南面の窓。そのさらに奥には、扉が開いたままのトイレ。トイレに入って腰を下ろす瞬間、すこしだけ斜めの部屋が見える。もしかして、日光を愛する私の習慣が斜めの部屋の商品価値を落としてはいないだろうか。斜めの部屋がいつまでも無人なのは、見えすぎてしまうわが家の見苦しさが原因なのではないだろうか?少しだけ心配になる。