モリノスノザジ

 エッセイを書いています

春に試されている

 クロッカスも桜も咲かないうちに会社にだけは春がきて、新年度とかいうやつ。人事異動に飲み会に、残務整理、引継ぎ、年度末締め。そういう「いつもと違うこと」に圧迫されている。そういった環境の変化が、どうやら今年は夜眠れない方向に作用しているらしく、毎日が眠たい。春よ来い、なんて誰が言ったのだ?

 

 職場にやってきたあたらしい同僚にはさいしょ、正直なところ、いい印象をもたなかった。うすい針金のような白髪が混ざったぼさぼさの頭。ノージャケット。ワイシャツの袖は一つもボタンをかけず、もじゃもじゃの腕毛がはみ出している。ゆるゆるの靴下からも脚の毛がはみ出していて、そんな足でベルトが千切れたサンダルをこねくりまわしている、机の下。

 職場であれほどストレートにムダ毛を見たのははじめてだ。一瞬なぜか気圧される。どんなに整理整頓のされていない事務室でも、どんなにほこりまみれの倉庫でも、職場でムダ毛を見ることなどめったにない。いや、私がムダ毛的観点から見てクリーンな環境に身を置きすぎていただけで、世間一般的にはムダ毛が視界に入ることはそれほど驚くことではないのだろうか?新卒で就職して以降この会社でしか務めたことのない私の常識が、試されている。

 

 毛に限らず私は試されている。ムダ毛のほかにも「初日からノージャケットはないでしょ」とか「新人はふつうこうするのに」みたいな感覚があって、しかしそれはあるところまでは「いままでは見たことがなかった」に過ぎない。会社がどんなに大組織であったとしても、日常的に仕事をやりとりをするのはたった数人だ。いままでの人生で私が会話したことのある人、かかわりあったことのある人もせいぜい数百人くらいだろう。私のなかの「ふつう」はあくまでもこれまでに出会い、かかわりを持った人との間の了解事項でしかなくて、私が持っている常識のほうが少数派である可能性だってあるのだ。

 理解できない人やモノは、いままで自分が安心して暮らしていた世界の、その外側にあるものだと思う。幼いころは私もこの、世界の円周をどんどん広げていくことができたのかもしれない。あたらしいもの、人、行動を見ても疑わずに受け入れ、むしろ自分の常識のほうを書き換えようと努力した。だれだって子どもはそうやって社会になじんでいく。でもいつのまにか、私は自分で描いた円周の外側にいる人を受け入れなくなっていたのかもしれない。スラックスからのぞくムダ毛に反応してしまうのも、私の世界にはいままでそんな人がいなかったからだ。いままで私の世界にいなかった人が目の前に現れたとき、私は試されている。自分の世界の円周を広げてその人を受け入れるのか、それとも排除してしまうのか。

 

 春は出会いの春と言う。出会うのはいいものだけじゃなくて、異質なもののことだってある。そういう出会いとどうたたかっていくのか、これはたたかいだ、自分を変えるのも、他人を排除するのも決して簡単なことじゃない。たたかいの春。

 春に試されている。