モリノスノザジ

 エッセイを書いています

忘れたくない、を超えていく

 愛媛県今治市と広島県尾道市をむすぶしまなみ海道。本州と四国、そしてその間にうかぶ6つの島々との間に橋がかけられ、サイクリングロードも整備されている。

 きっかけはささいなことだったのだと思う。しまなみ海道を自転車で走ってみようと思い立ったのはほんの思いつきに過ぎなかった。けれど、今となっては毎年欠かさず訪れる唯一の場所になった。

 

 なにしろ、はじめて訪れたときが良すぎたのだ。季節は四月。どこもかしこも桜が満開で、あたたかくて、海は春のとぼけた陽気のなかでほのぼのと輝いていた。尾道を出発してから今治に着くまでの二日間、空は一度も曇らず晴れていた。好きな道を選んで走って、つかれたら自転車をほっぽりだして海岸でひとやすみする。まわりには誰もいなくて、耳障りな自動車の音も聞こえなかった。波が足元のコンクリートにぶつかって、ちゃぷちゃぷと音を立てていた。その音は規則的ではなかった。

 そうして私は、ああ、今私がこんなに感動していることを、それでも私はいつか忘れてしまうんだろうな、と思った。写真には、波の音や今感じている気温、コンクリートのあたたかさも手のひらに食い込む砂利の感触も残らない。動画もそう。「今、この時」はかならずなくなってしまう。そしてそれは、とても悲しいことだと思った。

 

 どこかの誰かさんが、「余裕があったら発明したい装置3選」のひとつとして「感情保存装置」を挙げていた(余裕があったら発明したい装置3選 - ふと思ったんだけど)。

ドライな性格ゆえに自分の過去の感情の起伏を「あの時はあの時、今は今」と切り捨ててしまうのですが、時々「あの時の悔しさを思い出して自分を奮発させたい!」って思うことがあります。
感情保存装置があればそれができます。具体的な日時やシチュエーションで検索するとその時々の感情を再現することができる装置。バックアップ用の外付けハードディスクみたいなイメージですね。
この装置があれば、人生の色々な判断において後悔することが少なくなるはずだと僕は踏んでいます。

 私は「あの時の悔しさを思い出して自分を奮発させたい!」と思ったことはないけれど、あのときの気持ちを思い出したいなあと思うことはある。ものごとに対する動機となった感情ということで言えば、誰かの行動や作品に感動して自分もそうなりたいと感じたその気持ち。すばらしい映画を見たあとの幸福感。仕事を始めたばかりのときの初々しさ。そして、しまなみ海道に初めて行って、今、ここで感じていることを忘れたくないと思いながら感じていたあの時・あの場所のすべて。

 

 それに、もし保存した感情を他人とシェアできたらと思うと、いろいろな想像がふくらむ。

 

ピアノコンクールの控室で少年が、はじめて母親にピアノをほめられたときの感情を再生して、自分の気持ちを奮い立たせている。

息子の顔もわからなくなってしまったおばあちゃんが、彼がちいさな手で彼女の指を握り返した、その瞬間の記憶をくりかえし見てはなぜか涙を流している。

今日食べるものにもこと欠く貧しい女の子が、道端でひろっただれかのクリスマスイブの記憶を再生した夜、砂糖菓子のサンタクロースが少女のもとへやってくる夢をみている。

仕事が忙しくて旅行に行けないサラリーマンをねぎらって、上司がハワイの思い出を見せてやっている。

拷問がつくづく嫌になった秘密組織の党員が、最後に拷問にかけた捕虜の記憶を抜き取って、新しい捕虜に絶え間なく見せ続けて満足している。

妻は、はじめて出会った頃と変わり果てた夫の姿に愛想をつかしているが、寝る前に初デートの記憶を見ることを日課とすることで家庭の平穏はなんとか保たれている。

 

 …なんだか不穏になってきましたが。

 

 けれど、もしこういった機械があったとして、たとえばはじめて行ったしまなみ海道旅行の記憶を思い出したいかというと、うーん。そんなこともない。はじめてのしまなみ海道旅行で私は、波の音や海と空の色に、においに、橋の力強く美しい姿に感動した。そして、「わたしはいつかこの気持ちを忘れてしまうんだなあ」と悲しんだ。けれど同時に私は「いつかこの気持ちを忘れてしまうから、もう一度ここに来よう」と決心した。忘れるなら何度でも来よう。忘れるたびに来よう。そう思った。

 そして、今年が6年目になる。私は最初に行ったときの気持ちをもう、あのとき感じたようには思い出せない。けれど、これまでにどこへ行ったか、どの道を通ったのかは覚えていて、毎年あたらしい道を通るよう工夫をしている。これまでは比較的楽に走れる道ばかりを走っていたのだけれど、今年はすこししんどい道も走って展望台へ上ってみようと筋トレを続けている。そうして、毎年あたらしい気持ちで感動している。

 もしも感情記憶装置が実在して、最初に旅行に行ったときの思い出を、そっくりそのままリプレイすることができたとしたら、私はこんなにも何度も同じ場所へ行っていただろうか。たぶん、しなかったと思う。忘れてしまうからこそ、何度も行きたい。あの人にまた会いたいのは、あの人のことを忘れたくないからだ。

 

 感情を忘れてしまうことが悲しいのではなくて、そのうえに新しい感情を塗り重ねられなくなってしまうことが悲しいのだ。もうあの人とは会えなくなってしまった。息子は認知症の母を老人ホームに預けたきり、一度も会いに来たことがない。妻は過去の夫をうっとりとながめるけれど、現在の夫とは一日中、一言も言葉を交わさない。

 

 うーん。やっぱり私の考える活用方法がうまくないのかもしれないですが。