モリノスノザジ

 エッセイを書いています

しんどいぞ平成

 2019年4月30日をもって平成は終わる、ということが正式に決まってからというもの、いたるところで平成という時代を振り返る動きがみられるようになった。新聞やテレビなど、あらゆる媒体で平成時代を振り返る特集が組まれている。これから改元を過ぎるまでの数カ月は、ここ30年間の出来事を学びなおす良い機会になるのかもしれない。

 「平成」に注目するのは新聞やテレビだけじゃない。女性下着メーカーワコールが毎年発表している「今年のブラ」。2018年のテーマは「平成」だった。街へ出かければ、「平成」がテーマの写真展。去年の夏ころには、はてなブロガーも『平成最後の夏』というお題に取り組んでいた。そして平成の終わりが一歩、また一歩と近づきつつあるいま、私はエッセイと短歌それぞれに「平成」というお題を与えられて苦しんでいる。

 

 お題「平成」はなぜこんなにしんどいのだろう。その理由のひとつはあきらかに、私の記憶のなかにある世界はすべからく平成だということだ。平成以外の時代を知らない私は、それゆえに平成という時代がどう特徴づけられるのか、どう語ればよいのかわからない。

 そしてもうひとつの理由は、私の記憶のなかにある平成はけっして明るく幸福な時代ではなかったということだ。平成が振り替えられるとき、そこには度重なった自然災害が、経済不況があった。戦争があり、テロがあり、オウム真理教事件があった。バブル時代のきらびやかなミラーボールの明かりと、平成は常に対比されて語られた。平成はまだ私にとってリアルに生々しいもので、「古き良き昭和」のように郷愁をもって語るにはまだ早すぎる。

 

 とはいえ、こんなふうに何カ月も前から改元を話題に楽しめるというのは、ほんとうにレアなことなのだと思う。昭和が終わって平成が始まったときも、大正が終わって昭和がはじまったときも、当時の今上天皇が崩御されたタイミングでの改元であった。昭和天皇の崩御のときの様子を聞くと、毎日天皇陛下の容体が詳しく報道されて暗い雰囲気がただよっていたとか、亡くなられたあとの自粛ムードがただごとではなかったという話を聞く。もしも平成が同じように今上天皇のご逝去にともなって終わることになっているとしたら、とても「平成最後の〇〇!」なんて騒げはしなかっただろう。

 そういう意味でいうと、私たちが平成最後の数カ月をこんなふうにワクワクしたり、平成を振り返ったりしながら過ごしているのはとても稀な経験なのだけれど、それはそうと、ああ、お題「平成」はいったいどうしてやったらいいもんだろう?