モリノスノザジ

 エッセイを書いています

2018年の抱負

 日曜日は多くの働く大人にとってゆううつなものだけれど、私にはなかでもとりわけゆううつな日曜日が数カ月に一度めぐってくる。月曜の朝礼当番を翌日に控えた日曜日だ。私の職場では毎週月曜に朝礼を行っていて、12人いる社員が輪番で司会を務めることになっている。一週間の予定を読み上げた後、司会から一言話をするのが決まりなのだけれど、この一言が本当に苦手なのだ。もともと話をするのが苦手ではあるのだが、とにかく話すことがない。暑いですから寒いですから気を付けて、風邪が流行っていますから気を付けて、といったいかにも事務連絡的で何の面白みもない話はもうしたくないのだけれど、他の社員がみなそんな話しかしないので、例えば自分のプライベートに関する話をするにしても、どの程度まで話していいのかわからない。そういうわけで、朝礼当番を控えた日曜日はなんとなくプレッシャーのようなものを感じて、一日ゆううつなのである。

 

 同じようになんとなくプレッシャーを感じてしまうのが「新年の抱負」だ。朝礼の一言と違って他人に聞かせるわけでもないのに、新しい年を迎えると「今年の抱負を考えなければ」という謎の使命感にかられている。去年はなかなか抱負を決められなくって、やっと決まったのが6月になってからだった。そこまで時間をかけて決めた抱負がなんだったのかというと、まったく覚えていない。おととしやその前はどうだったのかというと、やっぱりこれもあまり覚えていない。どうしたもんだか、という感じである。

 当時の日記を読み返してみると、こんな抱負を立てていたらしい。

 

2016:① たくさん旅行をしたい ② なにか書きたい
2017:期待を超える一年にする
2018:① できることからやる ② つまらないことにこだわらない

 

 どうも動機がわからない。どういった背景で、どういう目的でこんな抱負を立てたのか、今になってみるとどうもぼんやりとしか思い出せない。一年後に覚えていない抱負なんて、いったい立てる意味があるのだろうか?と一瞬思うのだけれど、裏を返せばこの一年でそれだけ自分が成長したということでもある。一年前の自分にとって課題だったこと、障害だったものが今は見えなくなっているのだから。きっとこれらのことばたちは、その年の指針としてお守りのようにいつも私の心の中にあって、叶ったものから一つずつかたちをなくしていったんだろう。できていなくても、まあ、いちいち言い聞かせなくても意識するようには、少なくともなれているんじゃないか。

 そう考えると、新年の抱負を決めることは、これからの一年間をデザインすることでもある。ってあんまり重く考えすぎるとやっぱり朝礼の挨拶みたいにプレッシャーに思えてしまうのだけれど、節目なんだからそれくらい気負ってもいいのかもしれない。

 2019年の抱負は、① やりたいことは全部やる。これまでの自分は、時間がないとか、お金がないとか、すぐ飽きるかもとか、ミーハーと思われるかもとかいろんな理由で自分を閉じ込めすぎていた。なので今年は全部やる。

 二つ目は、② 自分で判断する。楽しいか、ためになるか、感動するかは自分で決める。そして三つめは、③ あとはまかせた。

ここ数年間を振り返ってみれば、どの一年も正月に思い描いたとおりの一年ではなかった。思いがけない出来事に巻き込まれた、とか、思ったよりもうまくいかなかった、いうことも当然あるけれど、それ以上に、自分は過去の自分が思っていた以上のことを常にしてきたという自信がある。自分に対する期待が低いというのももちろんある。だから、もっと自分に期待をかけてやれば、自分はもっといろんなことができると思っている。足りないのは自分への期待や自身であって、肥料をあげれば自分はこれからでもまだまだ成長できるし、もっといろんな楽しいことを見つけられる。だから、あとはぜんぶ自分にまかせることにする。

 

 ブログに関しては今のところおもしろがってやっているので、当面のところそれを継続していきたい。なにかもっとたのしいことを思いついたら、それもやってみたいな。まあなんとかなるだろう。飽きたらやめる。それまでの間、どうぞよろしくお願いします。

 

今週のお題「2019年の抱負」