日記はここしばらく更新が途絶えている。もともと、ここ数年はこまめに書いていたということでもない。記録に残しておきたいような特別な出来事が起こったとき。あとは観劇をしたときにその感想と、ついでにその日にあった出来事を書いておくくらいだった。と言っても、二年前までは平均して月に4・5回ほどは芝居を見に行っていたので、少なくともそれくらい以上の頻度で日記を書いていたということになる。
めっきり日記を書かなくなったその理由は、もちろん、コロナの影響で演劇を観る頻度が少なくなっているためだ。
その代わりに今年から書くようになったのが、映画の感想ノートだ。観た映画の基本情報をまとめ、感想を書く。はじめの頃は1ページに満たない感想であったのが、気がつけば一作品あたり2ページも3ページも続けて書くようになっていた。感想ノートをつけることで、意識的に映画を観ることができるようになってきている……のであればいいのだけれど。
感想を書くときに、私が禁句にしている言葉がある。「考えさせられた」だ。「考えさせられた」と書くとき、実際のところ私は、何も考えていない。頭のなかに、もやもやと渦巻くなにかが渦巻いている。でも、それがなんなのかを突き止めるのが面倒なので、思考を停止している。あるいは、単に何も考えていない。それなのに、利口ぶって「考えさせられた」と書いている。自分一人のために書く文章ですら、これなのだ。自分にあきれてしまう。
7月に買った本で『文章添削の教科書』と言う本がある。タイトルのとおり、文章を添削するための技術について書かれた本だ。そして、この本の帯には、次のようなコピーが書かれている。
豊富な図解と添削例で、文章添削の理論と技術をわかりやすく紹介。
添削ができると、あなたの読む力、書く力、考える力は飛躍的に伸びます!
大事なのは、添削ができることによって伸びるとされている「力」として、「読む力」、「書く力」に加え、「考える力」が挙げられていることだ。これは、すごくわかる。文章を書くことを文章を読むこと、それから考えることとはとてもつながっている。
文章を読んでいる。私は日本語が読めるので、特に考えなくてもするすると読めていく。でも、内容をどの程度理解しているかというと、疑問もある。時には、目が文字の上を滑っているだけで、何も理解していないこともある。文章を添削する、一字一句のミスも見逃さない気持ちで文章を読む、という意識で読むことで初めて「考える」のスタートラインに立てるのだ。
考える、からスタートするときにも、言葉にするということはとても大きな意味を持っていると思う。考えた内容を、具体的に言葉にすることだ。「考えさせられた」「考えた」とただ言うとき、私はたいてい何も考えていない。
そういうわけで、日常のなかで触れたもの、感じたことを言葉に変える訓練を、もう少し増やしていこうと思う。このブログは映画のレビューブログではないし、ブログ記事にするにはやや言葉が足りない。だから、Twitterで始めてみた。
#サイダーのように言葉が湧き上がる 、とてもよかった。俳句の監修に黒瀬珂瀾さんが参加されていたということ、クレジットを見て知った。
— 森 淳(もりすなお) (@MORI__S) 2021年8月1日
手元にある物ほどリアルで具体的に、あぜ道や水田、空へと景が大きくなるにつれて抽象度が上がって平面的な表現になってゆく。そのコントラストと、明度高め・サイド高めのの、ポップで明るくてやわらかいパステルのようでもあり、深みのある色合いがつくる世界感がとても好きだった。
— 森 淳(もりすなお) (@MORI__S) 2021年8月1日
SNSを介したコミュニケーションが、日常にとけこむようなかたちで表現されていたり、それに合わせた画面割も新鮮だった。
— 森 淳(もりすなお) (@MORI__S) 2021年8月1日
もちろんストーリーもいい。「雷鳴や伝えるためにこそ言葉」、いい句だな。
これまで私がこういうことをあまりしてこなかったことには、他方で、「間違えたくない」という気持ちもあったと思う。映画も演劇も、読書も、言うてちょっとかじっただけの素人でしかなく、感じたことが、考えたことが間違いだったら、間違いだと言われたら嫌だなあと思っていたのだ。感じ間違えるっていったいなんなんだよ、と思うけれど、そういうことを気にするヤツなのだ。私は。
それでも、まあとりあえずこんな無様なところからでも始めていきたい。今はただの真似事でも、いつか本当の「考える」ができるようになるために。