モリノスノザジ

 エッセイを書いています

予言

 このところ食欲が爆発している。……と言っても、たくさん食べるというわけではない。自炊一辺倒だった暮らしを改めて、毎日あちこちの店を渡り歩いては外食を楽しんでいる……というわけでもない。砂糖は上白糖とグラニュー糖を料理によって使い分け、キッチンにはローズマリーにディル、八角にカルダモンを取りそろえて……もいない。道具や調味料が変わらなくても、毎日新しいレシピに挑戦して、はじめて口にする味との出会いに日々心を震わせている―――ということもない。

 つまり私は、これまでと同じように自宅で、これまでと同じ調味料に食材を使って、これまでと同じように、7日連続でひとつの料理を食べ続けても一向に気にしないような、そんな生活を引き続き送っている。けれどこうした食生活にいま、喜びが爆発しているのである。

 フライパンで焼き目をつけたエビの香ばしさだとか、漬物のしたたるような感じ、ベーコンのジューシーなうまみ、カルピスアイスバーのさきっぽを歯でかじりとるときの食感や、レンジで軽くあたためたポテトチップスから立ち上ってくる香りの、そのひとつひとつが、うれしくてたまらない。

 

 だから、爆発しているのは食欲と言うよりもむしろ、食べることの喜びのほうなのかもしれない。当然のことながら、食べることの喜びが爆発すれば、食欲も少なからず爆発する。だからそれはもしかしたら、鶏と卵のどちらが先かを議論するようなものなのかもしれないけれど。

 これでの食事は、一人暮らしの身体を、毎日職場まで運搬するためだけに摂っていたようなもので、それは単なる「餌」でしかなかった。そこには、食べる喜びというものが欠けていた。「餌」としての食事にとって重要なもののひとつは「効率」であり、効率のために、一か月間サンマと白米だけの日が続いたとしても、私にとって苦ではなかった。そう思っていたのだ。

 けれど、私にとって、この変化は意外なものでも受け入れられないものでもない。なぜなら、この変化はすでに予言されていたからだ。

 

 「太る」だとか「脂っこいものが食べられなくなる」だとか、「急にハゲる」とか、三十代への変化はそんなふうに語られていた。それでも二十代の頃の私は「自分はそうはならない」と思い込んでいた。なんの根拠もなく。

 若いころから「どれだけ食べても全然太らないね」とちやほやされて(私が他人にちやほやされる、数少ない機会のひとつだ)、私自身それがまんざらでもなかった。ほかの誰が加齢で太ろうとも、私には無縁。そう思っていた。髪だって、いわゆる猫っ毛とは反対の、やや太めのコシのある髪。梅雨時期の毛量の多さにヘキエキすることがあっても、「30歳を過ぎたら急にハゲる」は私にだけは通用しないはずだった。

 

 しかし、現実は違った。太るのだ。ハゲるのだ。30代にさしかかり、外勤のない職場に異動になってからの半年間で、体重が6キロ増えた。三十数年にわたるわが生涯において「太る」というイベントが発生したのは、それが初めてのことだった。一年ぶりに履いたジーンズのボタンがかからないことに気がついたときには、内心ひどく傷ついた。

 ウエストに関してはその後なんとか持ち直し、今のところ衣装ケースの中身を総入れ替えするには至っていない。もともとが標準体重を満たさない体型であったこともあって、「これくらいがちょうどいいよ」と言ってくれる人もいる。ハゲに関しても、今のところ生え際の入り込みがやや鋭くなっているという程度の話だ。気に病むほどのことでもない。

 重要なのは、「30代になったら太る」とか「30歳を過ぎたら急にハゲる」などと巷でささやかれていることが、私の身体の上で現実になったということにある。

 「30過ぎたら飯がうまくなった」もまた、20代の私の耳に入ってきたことのひとつだ。食事をほとんど餌としてしか認識していなかった私の食生活が一変、この予言もまた実現してしまったのだ。とはいえ、「飯がうまくなる」こと自体は人生の新たな喜びを見出すこととイコールであるから、それ自体は喜ばしい変化であることに間違いはないのだけれど。

 

 大人になることは、歳を重ねることとは「こんなはずじゃなかったのに」と感じるタイミングは、少なくない。

 子どものときの私にとって大人は「わからずや」だった。大人は子どものことをわかってくれない。すべての大人はかつて子どもだったはずなのに、まるでそのことを忘れてしまったみたいだった。

 大人が子どもより長く生き、多くのことを経験している以上、大人の言うことのほうが正しいのだろう。たとえ今は理解できなくても―――そう考えたこともあった。でも、そうとは思えないこともあった。子どもから見たって間違いだとわかるようなことを、平気でする大人。それを「悪い」とは言わないほかの大人。愛想笑いをしながら。その愛想笑いが、私は嫌いだった。

 私は、正しいことを正しいと言える大人になりたいと思った。そして、大人になっても子どもだったころの気持ちを忘れまいと決意した。決意した、のだけれど。結局、忘れてしまっている。残っているのは子どもの頃の自分がそう思っていたという、あらすじ的な記憶だけ。そのとき感じていた怒りとか、やるせなさとか、そういうものはもう思い出せない。私も、あの頃の自分が嫌っていたような、愛想笑いをして間違いを見過ごす、情けない大人になってしまった。

 自分だけは絶対に子どもだった頃の気持ちを忘れない、と決意したのは、その底に「大人は子どものことをわかってくれない」という思いがあったからなのだけれど、後者のほうだけが、これも現実になってしまった。昔の私を裏切って。

 

 こうやってあれこれと予言が現実になると、これからのことを考えてしまう。私はまだ三十代だ。これから歳をとって、家族のかたちが変わって、職業が変わるそのたびに、自分には無関係だと思っていたいくつもの予言がどんどん現実になっていくんだろうか?裏向きに並べたトランプを、次々と表にしてゆくように。

 それが「飯がうまくなる」のようなラッキーカードであればいいのだけれど、人生の「下り坂」とも例えられるこれからのこと。きっとそんな幸せなカードばかりではあるまい。これから。これからの人生。どんな予言が現実になるのが一番おそろしいだろう。……そんなことを、考えそうになって、やめた。

 

 人生の教訓やら警句やらが一冊にまとめられた本。なんて言うんだろう。人生論の本って言うのかな?ああいう本を私は読まない。なぜなら、その手の「教訓」が前もって効いたことはないからだ。何事も自分で経験して、それから「ああ、あの言葉はこういう意味だったんだ」と実感する。失敗した後に警句を振り返って初めて、それが言わんとすることをはっきりと理解することができる。まるで、正解を知った後に見る間違い探しが、やけに簡単に見えるみたいに、はっきりと。でも、間違い探しを初見で解くことはできない。そんなふうに。

 少なくとも私は、ずっとそうだった。先を見通すのが苦手で、人生の先輩たちが残していったそういう言葉の意味も理解することができなかった。いつだって失敗しながら、そうやって言葉の意味をわかってきたんだ。

 これから私に起こる出来事、その予言に関してもそれと同じことが言えるだろう。「30歳を過ぎたら急にハゲる」という予言を現実のなかで理解できるようになったのは、それが実際に私の身に降りかかった後のことだった。それと同じように、これからの人生について言われるいろいろなことをまだ私は理解することができない。

 

 それは悲しいことだろうか。長い長い歴史のなかでたくさんの人が生まれ、老いて死んでいった。そして、その人生というものに関して多くの言葉を残した。その言葉を活かして、私はもっと賢く生きていければいいのにと思う。過去の人がすでにした失敗を繰り返さないで。幾人もの人が経験したのと同じ後悔をすることを回避して。もっと賢く、うまく生きていけたらよかったのに。そう考えると、過去の人の言葉から学べないのはやっぱり悲しくて、愚かなことなのかもしれない。

 

 けれど一方で、私の人生はどこまでも私だけのものなのだ、とも感じる。どんなふうに予言されても、これからやってくる30代の残りを、そして40代や60代の「感じ」を、私はあらかじめ理解することができない。それは、それが私にやってきたときにはじめてわかるものだ。私は私の30代と、私の40代と出会う。これから。そしてそれは、これまでにどれだけの人が40代や60代の生を経験していたとしても、関係のないことだ。私の30代は、私が初めて出会うもの。太るのもハゲるのも、私にとって一回しかない、そしてかけがえのない30代との出会いのひとつなのだと思う。

 

 このところ食欲が爆発している。……と言っても、たくさん食べるというわけではない。自炊一辺倒だった暮らしを改めて、毎日あちこちの店を渡り歩いては外食を楽しんでいる……というわけでもない。砂糖は上白糖とグラニュー糖を料理によって使い分け、キッチンにはローズマリーにディル、八角にカルダモンを取りそろえて……もいない。道具や調味料が変わらなくても、毎日新しいレシピに挑戦して、はじめて口にする味との出会いに日々心を震わせている―――ということもない。

 けれど、もしかしたらこの先そういうことがあるかもしれないな。私の40代は、キッチンにずらっと並べたスパイスでこだわりの手作りインドカレーをつくる人生かもしれない。20代まではろくにやらなかったお菓子づくりに目覚めている50代かもしれない。

 私は先を見通すことが苦手で、人生の先輩たちが残していった教訓の言葉を、あらかじめ理解することだってできない。でも、だからこそ、と思う。この先も生きていければいいな。生きていくのはいつも少しだけ不安で、同じくらい楽しみだ。