モリノスノザジ

 エッセイを書いています

野球選手にならない人生

 サントリーの「CAFE BASE」すっきり甘いアーモンドラテを飲んでいる。340ml入りのペットボトルにアイスコーヒーの原液が入っていて、牛乳で希釈すれば約10杯分の量。数カ月前にはじめてスーパーで見かけて購入したのだけれど、カフェで飲むような飲みものを自宅で牛乳で割ってつくるなんて、なんか時代だな、時代の生きものになっちゃったなって思う。カフェベース自体はコロナ以前からもあったはずだけれど、この「CAFE BASE」シリーズ、ベーシックなアイスコーヒーやカフェオレのほかにもキャラメルやアーモンドのフレーバーがついたものや、紅茶タイプのラインナップもあって、まさに「おうちカフェ」なのだ。

 カフェインに敏感な私は休日の午前中しかこれを飲むことができないのだけれど、いま一杯飲み終えて物足りない気分になっている。人ってもしかして、制限されるとほしくなるのか。別に誰に取り上げられているわけでもないけれど。

 

 制限があれば、もっとしたくなるのだろうか?最近がんばっていることは、短歌。それと、実は去年から戯曲を書いている。でも、どちらもがんばっているって胸を張れるほどがんばっているわけでもない。短歌に関しては、所属している短歌同人の同人誌発行を秋に控えていて、それと、今年はなんとなく短歌をがんばりたいなという気持ちもあって、毎日何かしら取り組むようにしている。

 誰に強いられているわけでもないはずなのに、歌集を読むことはときどき苦痛だ。苦手な・わからない歌というのが私にはたくさんあって、そういうタイプの歌集は放りなげたくなる。歌のなかには書かれていないことを、さもそこに書かれているかのように見出すことができる人たちのことを私はふしぎに思う。まだまだ読み手としての能力が足りない、とも感じる。それなのに、わからない歌のそれでもすごい・いい歌だということだけはひしひしと受け取ってしまって、自分の歌の拙さにちょっぴり落ち込む。そういうのはたいていすぐに回復するけれど。

 戯曲は昨年から書いていて、しかし読みかえしてみたらめちゃめちゃである。今年の1月から3月にかけて書いた作品を書き直すべく、プロットから見直しているのだけれど、この作業がつらい。せめて1日に30分でも時間を取ろう、とは思うのだけれど、なんだかんだ理由をつけて「お休み」にしてしまう。それは例えば「今日はちょっと眠いから」とか、まあだいたいそういうもので、プリンを食べたりスマホを見たりすることはできるのにプロットを書かないわけで、つまるところ逃げているのだ。

 ブログを書くこともときどき苦痛だ。書いたものを後で見返すと、途中で全然関係ないことを書いていたり、あきらかに話がつながっていなかったりして、それを誰かの前で読み上げられているわけでもないのに、顔がカアっと熱くなる。そういう文章をリペアするには頭が必要で、ときにはうんうん唸りながら自分の不出来な文章と向き合い続けなければならない。〇ボタンさえ押し続けていれば勝てるようなゲームのレベル上げに逃げたくなる。ある種のゲームの、「頭を使わずに達成感を得られる」感は異常だ。

 

 こんなことを続けていていったいなんになるんだろう?と、正気に戻りそうになることがときどきある。去年出会った女性は戯曲を書いていて、いつか戯曲を書くことを職業にできるようになりたい、そのために書いていると話していた。私はそうではない。劇作家になるどころか、この作品を書き上げたところでそれが誰かの目にふれることすらないかもしれない。小さくても劇団に所属していればそれを舞台にすることが可能かもしれないけれど、それもない。ただ会話を書くことがたのしくて、たのしくてただやっている。

 ブログだって同じだ。同じようにブログを運営している人にはそれで生計を立てている人だっているのに、このブログときたら金を稼ぐどころか反対にお金がかかっているのだ。つまり、この文章を私はお金を払って書いている。お金が目当てでなくても、ブログをきっかけにどうにかなりたいともくろんでいる人もなかにはいるんだろう。実際、ブログ経由で本を出版したり、そういう道に進む人もいるわけなんだから。

 私の場合、まあ、自分の書いた文章をたくさんの人が読んでくれたらうれしくないわけはないけれど、そういう話はなんだかまったく自分には関係ない話のように思える。スターの数も、訪問者数も長らく数えていない。書いていて、誰かがそれを読んでくれていればそれでいいような気もする。

 なにか好きなことの先に「何かになる」とか「お金を稼ぐ」ということがあるとして、そういうものもあるとして、そこを目指しているわけでも、そこにたどりつけそうなわけでもないことに時々ふっと気がついてしまって、「正気に戻る」。でも、それってどうなんだろう。

 

 ある野球好きな子どもが、親に「将来は野球選手だね」と言われて育って、でも結局野球選手にはならなかったとしたら、その子どもがやってきた野球はなにか無意味なものになるだろうか。あるいは、ただ楽しいだけで野球をやっている子どもは、無駄なことをしているのだろうか。そう言えば何人かの人は「そんなことはない」と言ってくれるんじゃないかと思う。私もそう思う。だとすればなぜ、私が戯曲を書いたりブログを書いたりすることの先には何かがなければならないのだろう。そこに何もないことに不安を感じてしまうのだろう。私はたのしいだけで、本当はそれでいいはずなのに。

 

 なにもかもに口コミがある。買おうとしている空気清浄機のレビューをAmazonで確かめて、行ってみたいレストランを行く前にネットで検索する。シャンプーを買う前に、化粧品サイトのランキングをチェックする。そういうことが当たり前の生活だ。そして、そうするときに私が考えていることは「無駄にしたくない」ということ。間違えないように、このお金はできるだけ「正解」に結びつくように。何かをまちがえている余裕なんて私にはなくて、お金も時間もいつも正解だけに費やしていたいのだ。

 

 「何か」にたどりつけるかわからないような、あるいは何にもつながらないと分かっていて、それとも目的もなく趣味を続けることは、無駄だ。時間を費やしたわりにそれが何らかの「正解」につながる保証なんてない。だけど、それはある意味で贅沢なことでもあるし、すべてのことに見返りを求めるような、そういう生活の姿勢に立ち戻ることのほうが本当に「正気に戻ること」だと言えるのだろうか。

 

 はじめて短い会話を書いたとき、心が震えた。何年ぶり、何十年ぶりだろう。幼いころ夢中でクレヨンを握ったときのような、懐かしい感情を思い出した。

 たのしいことなんだ。趣味がお金やたのしさ以外の何物かに通じるものであること、何かに没頭するということがただそれだけのためのものであると考えることを「正気である」と言うのであれば、私はずっと正気に戻れなくてもいい。無駄だとかそんなこと考えないくらい、ずっと夢中で狂っていたい。そうじゃないのなら、それが私にとってただ苦痛でしかないのなら、いつでもやめてしまえばいい。私にブログを、短歌を強いる人は誰もいない。この場所はただ、私がしたいっていうそういう気持ちだけを頼りに存在している。

 

 こういうことを書いてしまうのは、実のところ、迷いがあるということなんだろう。いつもそうだ。確信しているみたいな書きぶりで、本当は私自身が一番迷っているのだ。行動の対価として何かを得る、というやり方にあまりにもつかりすぎてしまっている。これを続けていてもなんにもならないじゃん、ってそう言うのは他人じゃなくてほかでもない自分だ。

 

 だらだらとTwitterをみていたら、ハムスターの画像が流れてきた。ハムスター、キャベツを与えられてうれしそうな表情をしている。キャベツを持ったまま目を細めている。ああ、こういうふうに生きればいいのにな、と思った。好きなことをして幸せになって、自分がそういう状態であることに疑いを持たないで。

 生きることはこんなに単純なことなのに、ときどき複雑にしすぎてしまう。好きだって、それだけで迷いなく書いていければいいのに。それだけなのにな。

 カフェラテだけは今日、二杯目を飲んだ。