モリノスノザジ

 エッセイを書いています

もっと積極生活宣言

4:43am

 雨の音で目が覚めて、ぼんやりした頭のままスマートフォンの画面をこすっている。だれかのツイートに「自粛生活」ということばをみつける。

 

 

 緊急事態宣言が出されて、北海道も生活が変わった。土日には、食料品などを扱う一部のフロアを除いてデパートが休業となり、飲食店は夜8時に閉まった。公共交通機関の終電は約30分繰り上げられ、街は閑散とした。といっても、これは全部伝聞であって私が直接見たことではない。テレビ画面に映る札幌とかいう街の風景は、たしかにいつもより人が少なくて元気がないみたいだ。緑だけが、ようやく芽吹きの季節を迎えていきいきと輝いている。

 

 わが社では社員の7割も在宅勤務できるだけの環境が整っていなくて、というか、そもそも在宅勤務が難しい職場ということもあって、多くの社員は出勤している。一部の社員は届け出をして在宅勤務をしているようだけれど、実態は在宅”勤務”とはほど遠いものであったり、出勤簿では在宅になっているはずの社員が実際には職場にいたりして、その実効性はかなり疑わしい。出勤簿に表れる在宅勤務率の数字がウイルスの蔓延を防いでくれるんだったらいいのだけれど、身体が職場にあるのではなんの意味があるのだかわからない。

 そういうわけで、在宅ができない社員は宣言期間中積極的に休暇を取得することになった。心に後ろ暗さを抱えながら「在宅勤務」をするくらいならそのほうがマシかもしれないけれど、宣言期間中だからと言って仕事が減るわけでもなく、むしろ増えているくらいでもあるわけで、休めばその分有休も減るわけで、なかなかうまい具合にはいかないものだ。

 

 

 休暇だというのにまだ日も明けないうちから目が覚めて、5時半には早めの朝食をとる。いつもなら二度寝するところだけれど、なんとなくそういう気もしないので起きることにした。階下に音が響かないよう注意しながら軽い掃除をして、24時間営業のスーパーに出かける。朝の時間帯だからか、生鮮食品の一部が特価になっていてうれしい。今日から三日分の食材を買いためて、まだ人通りの少ない道を歩いて家に帰る。

 

 休みの日、というのはなんだかんだでいろいろとやることがあるものだけれど、こうやってボーナス的に手に入った「休暇」には、普段の休みにはできないような時間の使い方もできる。ずいぶん放置していたFit Boxingを起動して汗を流すだとか、ブログの記事を書くだとか、クッキーを焼いてみるとか、そういうこと。

 クッキーはバターと牛乳と砂糖と薄力粉だけでつくれるお手軽クッキーで、まわりにも砂糖をたっぷりとまぶしてきらきらにする。手作りお菓子なんてこのクッキーくらいしかつくれないけれど、このクッキーが好きだからこれでいいのだ。クッキーを冷蔵庫で寝かしながら、焼きそばをつくって食べる。期間限定中華味、らしい。

 

 午後からは「HOPPY HAPPY THEATERhttps://hoppy-happy-theater.com/」で短編映画をみる。短編映画専門のインターネット映画館で、会員登録不要。毎週1本新しい作品が追加されるのだけれど、過去に追加された作品が入れ替わりでみられなくなる…ということはなく、いつでも好きなときにみたい作品を視聴できるのがうれしい。時間も短いから、空いた時間にサクッとみられる。もちろん、複数の作品を連続でみることも。

 インターネットを探せば――特にこの状況で、こういうサイトはたくさんあるのだけれど、ポイントカード持ちたくない系人間の私には、会員登録なしで作品がみられるってだけですごくポイントが高い。この日にみたなかでは『The Silent Child』とか『Agnes』がよかった。『The Eleven O'clock』も。 みたあと単純にハッピーになる作品ばかりではなくて、次の作品へ行く前に立ち止まる時間を必要とする作品もあって、この後味の多様さがいいなあとも思う。

 

 

 ずいぶん幸せだ、と思う。時間をかけて料理をすることも、部屋を清潔な空間に保つことも、家にいて好きな映画をみることも。世間ではなんだかんだ言われているけれど、もともとインドア派の私にとって外出が制限されることはそれほど痛手ではない。コロナ禍と言われる状況になってからはむしろ、オンラインで享受できるコンテンツが増えたり(そのなかにはもちろん、決してリアルの代替にはならないものも含まれているのだけれど)、会社の飲み会や休日のイベントがなくなって、大手を振って家にいられるようになったりだとか、むしろ私生活を充実させる方向につながった面も多い。

 ネットで配信されている映画も演劇も、1日24時間しか時間を持たない私には手に余るくらいだし、たのしいゲームは時間泥棒だ。本を読んでいたらあっというまに夕方になる。なにをするにも時間がかかる、その時間をたのしむのに、家にいるのが長すぎるなんてことはない。

 

 家にいることが苦痛だと言う人がいることはわかっている。私がインドアの生活を好むのと同じように、アウトドアの趣味を好むひとたちもいる。苦痛どころじゃないひとだっている。外出が制限されることによって生活の糧を失ったひともいる。わかっている。だから、私は幸せだなんて言っちゃいけない気がしていた。

 それはなんとなくあの地震の後の、地震による影響はたいしてなかったにも関わらず自分は幸せだなんて間違っても大きな声では言えなかったころのことを思い出して、そういえばあのときもそれは「自粛」と呼ばれたんだ。考えれば考えるほど、私が幸せに暮らすこと、「世の中には苦しんでいるひともいるのに」そうすることは罪なように思われて、指の先がぶるぶる痺れる。

 

 でも一方で、私の頭のなかのすごくクリアな部分に住んでいるひとが、どうして自分も苦しいふりをしなくちゃいけないんだ?と問いかけてくる。世の中には苦しんでいる人がいる、それは事実だ。でも、その事実から自分もまた不幸せでなければならないということは導かれない。それはばかげた飛躍だ。

 たとえば「世の中にひとりでも苦しんでいる人がいるならば、残りの人もみんな同じように苦しまなければならない」とでも言うのであれば、やっぱり私は幸せでいてはいけないのかもしれない。でも、そんなの狂った考え方だ。別に幸せでもいいだろ、誰が不幸せだったとしても。

 

 それに、私が幸せになることは、私以外のひとをちょっとだけ幸せにすることにも繋がっている…かもしれない。お店で品物を買えば、私はその品物で幸せになり、お店の人は収入が入ってちょっと幸せになる。「お金を払って物を買う」っていうのは、そもそもそういうことだ。私が自由に使えるお金の額なんてたかが知れているけれど、たとえそうであったとしてもなにか問題があるだろうか?私は、私の範囲をちょっとだけ生活を拡張して、それくらいで別にいいんだと思う。

 

 ちょうど一年前くらいには、牛乳が余って牛さんが病気になってしまうのだとかそういうことが言われていて、牛乳が嫌いなのにがんばってたくさん牛乳を買ったりしていたことを思い出す。いつの間にかそういうこともあまり言われなくなって忘れていたけれど、今も多くの人は旅行をしていないし、外食する人も減っただろうし、食材をつくっている人にも困っている人がいるに違いない。

 そう考えて先月から、「北海道つながるモールhttps://www.sos-sapporo-cci.org/」で道産食品を買うようにしてみた。まずは、前からずっと食べてみたいと思っていたチーズだ。ファットリアビオというチーズ専門店の商品で、厚く切ったチーズをステーキにする。胡椒とオリーブオイルをかけて食べると、これが思わず声が飛び出るくらいおいしい。もともと食にそれほど興味のない私にとって、おとりよせグルメはどれも普段の生活にはあらわれない高級食材にみえる。それでも、3,000円くらい出せばこんなにおいしいものが食べられる。普段ろくなものを食べていない私にとっては、それだけでも十分に新しい世界の扉だ。

 

 

 自粛生活。自粛生活か。そうおもって振り返れば私はまったく自粛していない。むしろ積極と言ってもいい。家にいながらコロナ以前よりもたくさんの映画をみて、おいしいものを取り寄せ、ゆっくりお風呂に入る。「自粛生活」と言う言葉を使うひとが具体的にどんなことをどれくらい控えているのかはわからないけれど、そういう言葉にひっぱられてグレーな気分になるのではなくて、もうすこし冷静になって自分の身の回りをみつめるべきだ。

 

 そういう視点でみると私の生活はちっとも自粛なんかじゃないし、この日々にもたのしいことはいっぱいある。自らの意思ではなく「自粛」を余儀なくされているひとたちのために、私ができることもある。いくつかでも。でもそれは一緒に不幸になることではなくて、私が幸せになることでするものなのだ。もっとこの日々を幸せに、もっと積極生活を。そうやって、一緒に幸せになりたいよ。