モリノスノザジ

 エッセイを書いています

涙、よくわからない

 いつもどおりのゆるい朝の挨拶を交わして、デスクに座った先輩が「Windowsのアップデート、した?」と聞いてきた。なんでも現在使用しているバージョンは来月でサポート切れになるだとかで、システム担当者からアップデートを指示されていたのだ。「10分くらいで済みましたよ」と答えると、先輩は「ほんとに?」と驚いている。「ボタンをクリックしたり、作業をするのが10分くらいで、そのあと待つのが1時間か2時間くらいです」と言い直した。

 

 「今日、中抜けしたいんだよね」と話す先輩に相づちを打ってから、デスクの上に置かれていた資料の礼を言う。昨夜のうちに先輩がつくって置いておいてくれたのだ。話題は変わって、引継ぎはいつがよいかと聞かれる。いつでもいいですと答えて、それからふいに思いつく。思いついたままに「中抜けするなら、その前にしとけばいいんじゃないですか。アップデート」と言って、言ったそばから発言を取り消したい気分になった。今は引継ぎの話をしていたのに、どうして中抜けとアップデートの話に戻るのか。

 それでも先輩は、わかってくれたのかわからなかったのか、ああ、そうだねなんて返事をしてくれて、それから数時間後、私はアップデート中のPCの前で先輩から引継ぎを受けた。

 

 人事異動の春がきた。と言っても、私自身が異動したわけではない。今いる部署はほぼ例外なく4年間で他の部署へ異動することになっていて、私は今年で4年目。今年異動するのは先輩。私がここに来てから3年間、お世話になった先輩だ。

 この異動はずっと前から決まっていたことだ。だから、2年目のときには「先輩はあと2年で異動してしまうんだなあ」とおもったし、去年は「あと1年」とおもった。そうして迎えたこの朝に職場でふたりしかいない状況で、今のうちにお礼のプレゼントを渡してしまおうとおもったのに、さっきから目がうるうるしている。平気な顔でプレゼントを渡すだなんて、できそうもない。プレゼントは先輩の分しか用意していないのに、結局朝の時間は渡すことができなかった。泣いてしまいそうだった。

 

 私はよく泣く。少なくとも、一週間に一度は泣く。映画の予告を見ては泣き、テレビでちょっといいニュースを見ては泣き、夜中に親のことを考えたりしては泣き、ブログを読んでは泣き、職場でちょっと悲しいことがあったらトイレでこっそり一滴分の涙を流したりもする。

 この間友人に「この前いつ泣いた?」と尋ねたところ、彼は「大人になってからは泣いたことがない」ということだったから、私は彼の人生何回分もの涙をほんの短い期間に流していることに違いない。

 私は悲しいときだけじゃなくて、腹立たしいときもうれしいときも涙を流している。ときには、それがなんの感情の表れなのかわからないこともある。別れの涙も、その一つだ。

 

 結局のところ、私は泣いてしまった。終業のベルが近づくにつれて心がざわざわしてはトイレで深呼吸をしたり、ストレッチをしたりして、それなりに大丈夫な気はしていたのだ。それでも、職場のみんなの前で挨拶をする先輩の声を聞きながら、私の目はコロコロした涙を次から次へとマスクのなかへ落としていた。

 今考えれば、3年間のお礼と言うには心もとないような気もするプレゼントを渡しながら、先輩は「私のために泣いてくれるなんて、うれしいです」と言ってくれたけれど、それは先輩のための涙だったのだろうか。別れの涙は悲しいなのかどうかもわからなくて、よくわからない。よくわからない涙だ。

 

 「死ぬわけじゃないから。また会えるから」と言われることがある。けれど、生きたまま別れるのが死に別れるよりもつらくないと言い切れるだろうか。好きな人が死んでしまって、永久に会えなくなるのは悲しいことだ。けれど、別れたままいつでも会えるのに、いつまでも会わないでいるのもまた悲しいことだ。そして、私たちはきっと自ら会おうとはしないとおもう。

 

 この3年間、いろいろな話をした。庭のカーポートに毎年雀が巣をつくるだとか、近所にできたコメダコーヒーの話だとか。それでも仕事終わりに一緒に飲みに行くだとか、休みの日にバーベキューをするということはなく、それは単なる職場の付き合いに過ぎなかった。そして、きっとこれからもそうだろう。そして私は、先輩のそういう、必要以上に他人のテリトリーに踏み込もうとしないバランス感覚のよさも好きだったのだ。

 私たちはたまたまこの職場で出会って、それは運命の出会いでもなんでもなかったのだとおもう。だから私たちはふたたびばらばらになって、これからはそれぞれの道を歩いていく。この3年は私たちの行く道が偶然この職場で重なっただけで、だからこそ、その偶然を失ってふたたびばらばらになってしまうことが悲しいのかもしれない。

 大切なつながりというのは家族とか友人とか恋人とか、そんな名前のついた関係のなかだけにあるわけじゃない。名前もないような、ささやかで、ほんの偶然によって出会ったり別れてしまうような人の関係のなかにも、何かがある。それはなんだか、生きているってことそのもののようにも思える。そういう名前のない関係のなかに、日々があるみたいな、そんなふうにも感じる。

 

 人はいつか死ぬから、すべての人は生きながら絶対的な別れに向かって走り続けている。別れはいつかやってくる。別れはいつかやってくると、そうわかっていながら、それでもやっぱり別れのときには涙を流してしまうものなんだろうか。別れはいつかやってくると知りながら、まるでそのことを忘れてしまっているみたいに、庭のカーポートや、郊外にあるコストコの話なんかをしたりしながら、人生もまたそうやって少しずつ過ぎていくものなのだろうか。

 

 

 人事異動の春がきた。先輩がいなくなった席には新しくやってきたおじさんが座り、私はおじさんに仕事を教えている。Outlookもうまく使いこなせないおじさんに昼間はつきっきりで、終業後、すっかり静かになったオフィスでようやく取り組むのは、よその職場へ駆り出されて今はいない同僚の仕事だ。

 なんだかな、と思わないこともないけれど、そういうときには3年前のことを思い出す。あのとき、この職場にきたばかりで右も左もわからない私に先輩はつきっきりで教えてくれた。言葉で教えるだけじゃなくて、いつも近くで一緒に手を動かして、必要なときには一緒に身体を動かして。ベルがなって私が職場を後にするときも、先輩はなんでもないみたいにデスクに座ったまま、それから自分の仕事を始めていたのだとおもう。

 そんなことを思い出しているとなんだかまた目頭が熱くなってくる。「悲しい」でも「悔しい」でもないはずの、やっぱりこれは、なんだかわからない涙だ。