モリノスノザジ

 エッセイを書いています

バカの薬箱

 幼いころは薬屋が定期的に家にやってきた。薬屋がやってくると母は、押し入れから透明なオレンジ色の引き出しがはいった薬箱を取り出してきて、そこに新しい薬を詰めてもらうのだった。

 

 その薬箱を、母に内緒で何度か開けたことがある。カプセル薬は光にかざすとつやつやと輝いて、なかにほんのりと顆粒が見えるのが好きだった。色も薬の種類によってさまざまである。当時――というのかたまたまわが家がそうだっただけなのかはわからないけれど、錠剤の薬はほとんどなかった。代わりに?子どもが飲む薬ような薬のほとんどはオブラートに包んで飲まされていたような気がする。そのオブラートもまた、日が透けるほど薄っぺらくて、指で触れるとかさかさと音がして、舐めるとほんのり甘くて、薬箱のなかのメンバーでは1・2を争うアイドルだった。

 ここのところオブラートを見ないのは、薬がオブラートに使わなくても飲みやすいように改良されたためなのか、それとも、単に私が大人になって服薬にオブラートを必要としなくなったためなのか。もしも前者が正解なのだとしたら、いつの日か「オブラートに包む」という比喩の出所がわからない世代と出会う日もそう遠くはないのかもしれない。

 

『えっ?「オブラートに」って副詞じゃないんですか?』

 

 そんな私の薬箱に、もちろんオブラートはない。一人暮らしの家に置いている薬箱だ。薬屋が定期的に家にやってきて薬を足していく――ということもなく、ドラッグストアで購入した薬が詰めてある「配置薬」風の代物である。

 幸いなことにまだ大きな病気もしていない一人ものなものだから、薬のバリエーションは少ない。胃薬も下痢止めもにないし、包帯やサージカルテープみたいな大仰な手当て道具もない。普段使いできる綿棒くらいは入っていてもいいはずだが、これもない。

 そして、これほどまでに頼りない薬箱だと分かっていても、急に体調を崩したときには自宅の薬箱に手を伸ばすしか方法がなく、そして、私は愕然とする。この救急箱には、風邪薬や頭痛薬すら入れられていない!!

 

 弁解させてもらうと、これにはもっともな理由がある。最後に病院に行ったのは中学2年生の冬の日。小児科でやたら甘ったるいオレンジ色の薬を飲まされて以来、私は風邪という風邪にかかったことがない。なんとなくだるいなーという日があったとしても、たいていの不調は寝れば治るのだ。

 そういうわけで、一人暮らしを始めた私に風邪薬を買って風邪を治すという知恵はつかなかった。元来お腹は強いほうで、出す関係で苦しい思いをしたことはほとんどない。未熟児で生まれて保育器に入れられていた過去を思えば、ほとんど奇跡と言ってもいいくらいの健康優良児である。ちなみに、ろくに運動をしないので怪我をすることもほとんどない。

 

 それでも30を超えるとあちこちに不調を覚えることも多くなってきた。しかし、私には薬を買うという知恵がない。どうしても具合が悪くなったら病院に行き、病院で処方された薬を飲む。医者の指示通り薬を飲み切るので、わが家の薬箱が潤うことはない。「念のために」と処方されて使わなかったロキソニンがたまに薬箱のなかにやってくるくらいで、頭痛やなんかのときにはそうやって余っているロキソニンを半錠ずつ飲んで生き延びてきた。

 30にもなって薬の買い方がわからないというのは、近所のドラッグストアにある謎システムに原因がある。その店ではトイレットペーパーや化粧品、洗剤といった日用品を棚に陳列していて、薬はレジの背面の棚に置かれているのだ。

 はたして、レジの裏側に回り込み、あそこの棚に置かれている「イヴ」を取ってもいいものなのだろうか?しかし、レジの裏側というのは基本的には店員さんしか入れないスペースのはずである。これはもしかして、店員さんに声をかけないと買えないパターンだと言うのか?などと煩悶して、たいていはレジ前を怪しげにうろついただけで店の外に出てきてしまう。

 これが20代で薬を買うという経験をしてこなかった人間の、そして、人並みの病気にもかからないバカが行きつく果てなのだ。

 

 そういうわけで、わが家の薬箱はとても貧しい。使いかけで乾ききったシップに、使用期限の切れた目薬。数年前旅先でサイクリング中に転んで、島に一店しかないドラッグストアで買い込んだ絆創膏だけは、種類も量もやたらと豊富にある。10㎝×12㎝の大きさの絆創膏をまた使う機会があるかというと、どちらかといえばないほうが嬉しいのだけれど…。それから消毒薬に、最近入手した鼻炎薬と酔い止め。

 そろそろ、頭痛薬と風邪薬くらいはなんとかして買っておいたほうがいいのかもしれない。無駄にビクビクして薬も買えないこの病気につける薬があればいいのだけれど、それは無理かもしれない。「バカにつける薬はない」って言うくらいだから。