モリノスノザジ

 エッセイを書いています

いつかブログを閉じるとき

 「いつかはこのブログが必要でなくなるときがくる」。そう書いたひとがいて、ああそうだなとおもった。その人がそう考えるに至った具体的な経緯や、むしろそういったことが書かれてあったかどうかすらも覚えていないのだけれど、その一言だけは覚えている。その人は、生きていて感じるくるしさのようなものをブログや作品にぶつけていて、それを乗り越えられたときにはそのどちらも必要なくなるというような、そんな話だったような気がする。

 

 ブログを書く理由、それがブログでなくてたとえば小説であったり、詩であったり、戯曲であったりなんでもよいのだけれど、それは人によってさまざまなのだろうけども、それによって経済的な糧を得ているとかごく特殊な場合を除いてはほとんどのひとが「自分のため」にそうしてるんだろうと想像される。

 そして、自分のために表現をする人のなかには、それがたのしくて仕方ないとか、もはや日常になっているという人もいれば、日常のなかであふれてしまってどこにもぶつけようのない気持ちを創作によって解消しているタイプの人もいる。

 そんな大それたものじゃなくても、私もどちらかといえば後者のほうで、すべてのストレスから解消されて見事晴れやかな気分になった自分がそれでもブログを書いている姿というのは想像できない。ブログは日々のストレスを受け止めるクッションのような存在で、きっと、必要がなくなったら私は捨ててしまうのだ。

 

 だいぶ前のことだが、映画『花束みたいな恋をした』を見た。ものすごーく簡単に言うとすれば、これは「ひとつの恋がはじまってから終わるまでの物語」で、たくさんの固有名詞に彩られた、麦と絹という特定のカップルの物語でありながら、私自身、そして恋の終わりを経験したすべての人の物語であるようにも感じた。

 いくつかの恋の終わりを経験した人は、恋だけじゃなくて、いくつかの別れや終わりを経験した人は、どんな出会いも特別でもなんでもなく、すべて平等に別れの予感をはらんでいることをうっすら胸のうちに抱えながら恋をしたり、生きたりしているんじゃないか。私は恋をしていても、自分も「ひとつの恋がはじまってから終わるまでの物語」のどこかにいるのではないかとおもってしまって、だから、その恋が終わってしまってもたぶん、まあ、そういうこともあるよな、とおもってしまう。

 人と疎遠になったり、夢中になっていたものを忘れてしまったり、そういうことがきっとこれからもある。そしてブログもまた永遠にはなれないもののひとつだとおもう。私はいつかこのブログを閉じる。

 

 交通事故に遭った芸能人のブログがいまだ閉鎖されずにいて、命日になるとファンがコメントを寄せに訪れるという話を聞いたことがある。なんだかちょっとした幽霊みたいでもあるな、とおもう。

 

 人がブログをやめるとき、そのやめかたにはいくつかのパターンがあるだろう。自分の場合はどうなるだろうか。いつの間にか更新をしなくなって、ブログのことも忘れてしまって、訪れる人も次第にいなくなって、ブログだけがネット空間に残される場合。ブログの閉鎖に伴い、いっさいのデータを削除する場合。交通事故に遭った芸能人の場合と同様、やむにやまれずブログの更新を停止せざるを得なくなって、そのままブログが残っている場合。…いろいろと考えられるけれど、ブログが必要な私を支えてくれているこのブログのことを考えると、できればちゃんと終わらせてあげたいなあという感じもする。

 

 冒頭のブログの主とはリアルでも交流があったのだけれど、もうしばらく会っていない。ハンドルネームでネット検索をかけたがブログはみつからなかった。Twitterはかなり前から更新されていない。ブログは消されてしまったのだろうか。

 あのブログがもしも今は更新されていないのだとしたら、そのブログを必要としなくなったあの人が、幸せになってるんだったらいいなとおもう。

 

今週のお題「〇〇からの卒業」