モリノスノザジ

 エッセイを書いています

戦線にまどろみ

 長い長い戦争がはじまって、もう20年近く経つ。それは降ってわいたように前触れもなくやってきた。こちらに攻撃されるようないわれはない。…たぶん、そのはずだ。容赦ない猛襲に対して、私は涙や鼻水を流して防衛するしかなく、敵に対して積極的に危害を加えるどころか、そのような攻撃への反撃をしたことすらない。

 この戦いは理不尽だ。冬になると彼らはしばらく交戦を止め、ここらあたりは短い休戦期間に入る。けれど、それも長くは続かないだろう。奴らの動き出す気配を、私は感じている。

 

 

 花粉症と診断されたのは、たしか、中学生のときだった。イネ科だ。ひどくくしゃみがでて、目玉を丸ごとひっこぬいて水洗いしたくなるくらい目がかゆかった。病院で処方された薬を飲むと、一時的に症状が治まりはするものの、手術と違ってたった一度の服薬で花粉症が治るはずもない。体質の問題だから、時間が経てば自然に治癒するというのも考えられない。たった13歳の私は、この先に続く長い(はずの)人生をおもい、その道のりを常に花粉症とともに歩む未来を想像した。とても耐えられないとおもった。

 

 「こんなにつらい思いをして、一生花粉症の薬を飲み続けるくらいなら、花粉症がない北の国に住みたい」と言うと、同じく花粉症を患っている父は笑っていた。そのときの私は、まさか15年後の自分が本当に北国に住んでいるとは思いもしなかっただろう。花粉症から逃れてきたわけではないけれど、あのときの冗談は現実になった。

 

 正確に言うと、北海道に越してくる前にまた別の地域で暮らしていたことがある。花粉症の症状を引き起こす花粉にはどうやら地域性があるらしく、実家から引っ越すとしばらくは花粉症の症状が出なかった。そこが街だったということもあるかもしれないけれど、私の身体がアレルギー反応を起こすような花粉が、その地域では飛んでいなかったということだろう。

  しかし、その地域にはその地域の花粉がやはりあるらしく、数年経つと無事に私の花粉症は再発した。地元でイネ科の花粉に反応していたのは初夏から秋くらいの時期であったが、あきらかにそれよりも早まっている。おそらく、イネ科とは別種の花粉にやられているものとおもわれた。

 

 

 それから逃げるように北海道へ越してきて7年目の去年。とうとうあやしい気配を感じつつある。このあたりではイネ科花粉もスギ花粉もたいして飛んでいないはずだ。それにも関わらずここでも花粉症を発症しているのだとすると、私の身体はイネ科でもスギでもない、第三の花粉に目覚めたということになる。

 いったいどうしてこんな悲劇が世の中にあるものだろう。ブタクサからもスギからも逃げてきて、やっと安寧の地を得たとおもったのに―――。もはや、私は草の生えない南極の地に暮らすしかないのだろうか…中学生の私ですら笑いそうな、そんな極端な考えが頭のなかをよぎる。もはや、あれに頼るしかないのか。

 

 

 「ちょっとねむくなるけど」と渡された薬は、たしかにねむくなる薬だった。どういうわけか、朝からくしゃみと鼻水が止まらない私への、先輩からの差し入れである。花粉症というには時季外れだし――とおもいつつも、もらったアレルギー性鼻炎の薬を飲むと、あれだけつらかった症状が嘘みたいにおさまっだ。これまでの花粉との戦いがふいに頭のなかをよぎって、暗い気持ちになる。

 薬が切れるとこわれた蛇口みたいに鼻水が出る。始終鼻をかんでいると(このご時世)肩身が狭いものだから、先輩にもらったのと同じ薬をドラッグストアで買って飲むことにした。たしかにねむくなるけれど、その分よく効く。

 

 薬の副作用でねむくなるというのは、なんだか通常のねむけとはちょっと違うみたいだ。寝不足でうとうとする感じとはちがって、昼寝からさめたあとのぼーっとするような感じがずっと続いている。口のなかは乾いて、なんだか昼寝のあとの子どもの唾液みたいなにおいがずっとしている。

  気を抜くと、時間も空間もなくなっている。仕事中、届いた請求書に目を走らせながらたましいが抜けたみたいにポカーンとして、だれかが近くを通りかかる気配を感じてなんとかたましいがデスクに戻ってくる。いかんいかんとパソコンに向かって、入力しようとしてまた宇宙に行っている。こんな感じだ。

 ポカーンとしてしまうのはよくないけれど、なんだかそのボーっとした感じはときどきなら悪くない気もする。あの熾烈だった戦いがここまでのどかになるのなら、その方がいいとおもえるくらいだ。

 

 

 薬は効いたけれど、実際のところあれが本当に花粉症のせいだったのかはわからない。どうやらその日は爆弾低気圧と呼ばれる爆弾的な低気圧が北海道を襲っていた日であるらしく、そしてどうやら低気圧によってアレルギーのような症状を起こす人もいるらしく、北海道で花粉症患者が出るには少し時期が早いということもあって、もしかしたら私は花粉症ではないのかもしれない。

 

 いずれにしても、ブタクサから逃げ、スギから逃げて北海道にやってきた私が、けっきょくのところ鼻炎の薬を飲んでいると知ったとしたら、13歳の私はいったいどうおもうことだろう。花粉症からは逃げられないのだ。

 

今週のお題「花粉」