モリノスノザジ

 エッセイを書いています

隔たったところから

 変化というものは本来、いいものでも悪いものでもない。変化にはいいものも悪いものもあるし、ある変化がいいものであると同時に悪いものでもあるということもある。それなのに。「この1年の変化」と言われると、ほとんど反射的に「悪い変化」のほうが頭にはじき出される。疑いもなく、新型コロナウイルスのせいだ。

 

 実際のところ何が変わったのかと聞かれると、たいして変わっていない。実のところ。勤め先の性質上時短営業や外出自粛の影響を受けるということもなく、職場でのテレワーク導入も遅々として進まず、ただいつもより少しだけ出勤する時間がはやくなっただけで、いつもどおり電車に乗り、いつもどおりの仕事をして給料をもらう、いつもどおりの生活。ただ遊びに行くことは減って、ただただ働いて食べて寝るだけの生活に心が錆びつきそうになることもあったけれど、それだけだ。働けて、食べて寝られるというただそれだけのことができるということが、今は幸運なのかもしれない。

 そんな幸運な日々を送っているものだから、多くの人と同じように、旅行にも行かなかった。

 

 

 以前まで、私たちは年に一度会っていた。旅行をしようと言い始めるのはだいたい決まっていて、だいたい暇な私がだいたい最初に反応する。あそこがいいねここがいいねなんてLINEでやりとりして、みんな優柔不断でやさしいから、特定の誰かが極端に遠くならないように譲り合ったりしてなかなか行先は決まらない。そんなこんなでやっとのことで目的地を決めると、宿だけ決めて思い思いの日程で現地に集まり、借りたレンタカーの中で行先を決める。別れるときは、毎日顔を合わせていたときと変わらないような何気なさで、そういう大げさじゃないところが好きだった。

 

 私たちは変わらないようで、変わっているとおもった。みんなで集まる約束の日より一日早く神戸に着いた私を、彼は小洒落たイタリアンレストランに連れていった。

 「この店、村上春樹の小説に出てくる店らしいねん」と彼は言った。それから、港の近くにあるショッピングモールまで歩いて、窓から夜景の見える店でプリンを食べた。その一連の行軍はあまりにもこなれすぎていて、もしかしたら以前女の子を連れて同じ道を歩いたのだろうかとおもった。とっさに、友人が北海道に遊びにきたときに、ろくな店を知らなくて恥ずかしい思いをしたときのことをおもいだした。私が女の子をエスコートすることになったとしても、彼のように上手にはできない。

 

 私たちは変わらないようで、変わっているのだとおもう。些細だけれどどうしようもない考え方の差異を、そのズレた心が触れあうときに生じるわずかな摩擦のようなものを感じることが増えるようになったとおもう。同じことを学び、同じ街で生活し、大学食堂の同じメニューを食べ、朝から晩まで一緒の研究室で過ごしたあの日々。そのときと比べると、私たちの前提条件は大きく変わってしまった。

 例えば違う職業に就いていること。給料が違い、仕事の内容が違い、残業に費やす時間と家で過ごす時間とのバランスが異なること。

 仕事に対する考え方も、人によって異なっている。私は仕事をすることにたいした熱量は持っていないし、長時間残業したりして体調を崩したりするのはばからしいとおもっている。でも、友人はそうでもないらしい。もちろん、そうおもわずにはいられないという可能性もある。長時間勤務が常態化していて、それを自らの力で変えられないのだとしたら、私も自分がたくさん働いていることには何らかの意味があると考えたくなるとおもう。現に自分がそうだ。私は自分が残業をしないことを、仕事に熱を入れて人生を棒に振るのはばからしい、という思い込みで正当化しようとしているのかもしれない。

 どっちにしろ、友人は私を「(自分は苦労しているのに)楽している」とか「仕事を軽く見ている」とか感じるかもしれない。友人たちと久しぶりに会って話をしても、ここ数年の私は黙っている時間のほうが多い。

 

 

 私たちは卒業と同時にそれぞれの道を別々に歩き始めて、ほんの少しだけ方向が違うつもりで歩いていたら、いつの間にかずっと距離が遠くなってしまったのかもしれない。その距離が決定的な隔たりになるのを、年に一度の旅行が多少なりとも和らげていたのかもしれない。でも、それはこれまでの話だ。一度も集まらなかった2020年という時間が、私たちの間の距離をずっと広げてしまった可能性もある。そうでなくても、新型コロナウイルスをめぐるあれこれは、各個人が置かれた立場の違いを明確にする。単に、物理的に距離が離れているというだけではなくて。

 

 

 変化というものは本来、いいものでも悪いものでもない。変化にはいいものも悪いものもあるし、ある変化がいいものであると同時に悪いものでもあるということもある。

 感染症の拡大で旅行には行けなくなったけれど、劇場の営業が安定するようになってからは、頻繁に映画館に通っている。たぶん、これまでの人生のなかで一番映画を見ている。いままで嫌煙してきたジャンルの映画も見るようになって、人生はますます楽しくなるばかりだ。コロナのせいでどこにも行けない一年だったけれど、映画館の椅子に座ったまま私はどこにでも行けた。

 

 変わってしまうことは、それ自体悪ではない。だから、仮にこの一年間が私たちをより遠ざけてしまうものであったとしても、その隔たりを、なんか、たのしいものにすることができたら最高なのにな、とおもう。会わなかった一年の間に経験したことを、自分自身の変化を持ち寄ってそれを楽しめれば、そのときはまた私たちの関係もひとつの「変化」を経験することになるだろう。

 あるいは、このまま関係が冷え切ってしまって、二年前に会ったのが最後だった、なんてことになるかもしれない。そうなったらちょっとかなしいな、とおもう。まあ、案外なにも変わらないのかもしれない。

 いずれにしても今の私には、隔たったこの場所をできるだけたのしく、はなやかに彩ることしか、することがない。

 

お題「#この1年の変化